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長編連載小説 Huggers(7)

小倉は、裕子に真実を言えず苦しむ。

              小倉 1

 小倉忠典は阪神電鉄尼崎駅のホームのベンチにすわっていた。
 冬の日は早くも暮れかけていた。阪神電車の、明るいオレンジ色のラインが入ったステンレスの車両が、傾き始めた太陽の光を鈍く反射しながらすべるようにホームを離れていく。もう何台見送ったことだろう。アナウンスが次の電車の到来を告げるたび、次こそは乗ろうと思うのだが、線路の遠くにぽっちりと電車の先頭部分が見え始めると、油汗が噴き出し心臓が激しく打ち始める。
 何が支え手だ。
 前かがみになって胸苦しさに耐えながら、小倉は思う。全力であなたを支えます、だと。とんだお笑いだ。
 支えてくれるはずの男は実は電車に乗ることすらままならないと知ったら、西野裕子はどんな顔をするだろう。

 電車の最後部が線路のカーブを曲がって見えなくなると汗がひいていく。 ほんの少しクリアになった頭の隅で先程の裕子の不安そうな顔を思い浮かべ、zoomで通話している最中にも感じた焦燥に再び駆られた。彼女のホルダーとして、ビデオ通話や共振で励ますことのほかに、自分に何かしてやれることはないのだろうか。
 してやれる? ずいぶん偉そうやないか、と頭の中でおなじみの声がする。
 いつからそんなに偉くなったんや。そもそもお前はそんなに高潔な人間やったんか?
 そのままずるずると自己嫌悪の波にさらわれていきそうになりながら、小倉は何とか踏みとどまる。頭の中では、あの日永野英夫が電話の最後に言った言葉が、碇(いかり)のように彼をつなぎとめている。
 
 永野と最初に会ったのは、2年ほど前、大阪梅田にある英会話スクールの、アルバイトの採用面接の場だった。
 雑居ビルの一フロアにある、こじんまりしたスクールだった。会議室とは名ばかりの控室のような狭い小部屋で待っていると、現れたのは40代前半とおぼしき背の高い男だった。
「お待たせしました。小倉忠典さんですね。責任者の永野と申します」
立ち上がって礼をした小倉にすわるよう促しながら、男は言った。髪は薄くもなく白髪もなく、たるみのない顔はかなりの男前で、若い頃は女性にモテただろうと思わせるような優しげな顔立ちだった。向い側にすわった永野は手に持っていたクリアファイルを机においた。一番上に、小倉があらかじめメールで送っておいた履歴書がはさんである。
「ええっと、うちの募集は、ウェブサイトで見たんでしたよね。私どもはずっと、通学型の授業主体でやってきましたが、募集要項に書いたように、今回、海外に拠点をおいたネット英会話事業に新規参入することにしました。お願いするのはその事業に係わる実務的な作業なんですが、そういった仕事にご経験はおありでしょうか」
「いいえ、今まで勤めたところでは主として外回りの営業を担当しておりましたので、足での顧客開拓以外のことにはあまり経験がありません。でも、ネットを使って海外の講師から学ぶという方法には、英会話以外にも大きな可能性を感じますし、やりがいのある仕事だと思います。もしチャンスをいただければ、ぜひお手伝いさせていただきたいと存じます」
 少し優等生的にまとめ過ぎたかと思ったが、永野は何度か深くうなずき、それからおもむろにファイルを手に取った。その時、永野の背後のドアがノックされた。
「どうぞ」
 と永野が言うと、ひょいと顔を出したのは永野と同年輩くらいの外国人だった。
「こちらはデレク。うちのネイティブ講師のチーフです。デレク、ディスイズミスターオグラ」
 デレクは明るい色の髪に緑系統の色の目をした、いかにもアングロサクソン系という風体の痩せた男で、永野よりもさらに上背がある。小倉を見ると、「Hello」と言い、にこっと笑って手を差し出した。男の年齢には不似合いな、どこか子供っぽさの残るはにかんだような笑い方で、小倉も思わず釣られて笑みを返しながら差し出された手を軽く握った。骨ばった大きな、冷たい手だった。デレクはそのまま永野の隣の椅子にすわった。
「申し遅れましたが、彼にも面接に同席してもらいます」
「ヨロシクオネガイシマス」
と先に頭を下げられ、あわてて「こちらこそよろしくお願いします。小倉と申します」と頭を下げる。
「失礼しました、では続けましょう」永野はファイルを開いて履歴書に目を落とし、高校、大学時代の部活や学科などについて簡単な質問をした。話が職歴に移ると、自然に肩に力が入る。
「経営学部を卒業後、百貨店に就職されたんですね。外商部に配属。外商のお仕事はかなりハードだとお聞きしますが……」
小倉は苦笑いをした。
「はい。お客様は神様の世界ですので。夜中に呼び出されることもありましたし、顧客の家の大掃除を手伝ったり、それは大変でした。でもおかげさまで、普通ではできないようないろいろな経験をさせていただきました」
「なるほど。二年ほどで退職なさってますね。理由をお伺いしてもよろしいですか?」
「過労で体調を崩しまして」
「厳しい残業やノルマが原因でしょうか?」
 永野の口調はあくまでもおだやかだが、そのまなざしは鋭く小倉の表情をとらえて離さない。デレクのほうは日本語の会話をどこまで理解しているのか、黙ってすわっている。
「それもあります。とにかく残業が多かったので、家に帰れないこともしょっちゅうでしたし」
「メンタルにもやられますよね。厳しい上司だと」永野は同情するように言った。
「営業という仕事にはノルマはつきものですから」
 小倉はたんたんと答えるよう努力したが、無力感が襲ってきた。病気のことを言わねばならないだろう。ああ、ここもまたダメだなと思った。
「なるほど。体調を崩して退職されて、その後の二年間は」
「家で療養を。でももう、すっかり良くなりました」
「お体のほうは万全ですか?」永野は視線をはずさないままたずねた。
「もしうちに来ていただく場合、アルバイトでも残業や海外出張がある可能性があります。それでも体力的には大丈夫ですか?」
「海外出張?」
 小倉は驚いて聞き返した。
「そうなんです。あくまでも可能性ですが。ゼロではありませんので、みなさんにお聞きしています」
 小倉はしばらくうつむいて黙っていた。永遠とも思える十数秒間の後、下を向いたまま「僕は、飛行機には乗れないんです」と言った。
「飛行機に乗れない? どうしてですか」
「乗れないんです。恐いんです。急行電車や長距離バスにも乗れません。パニック発作を起こすんです」
 小倉は早口で言った。顔を上げることはできなかった。そこでやめようと思ったが、口が勝手に動いてしゃべり続けた。
「さっき言ったこと、志望動機とかは、本当ですけど、こちらに応募した一番の理由は各駅停車で来られるからなんです。黙っていようと思っていました。黙っていれば……」
 なおもしゃべり続けようとしたが、「小倉さん」と永野が制したので、小倉ははっとして黙った。
「小倉さん、もういいです」
 ぼんやりと顔を上げると、永野とデレクは同じように悲しそうな顔をして小倉を見ていた。
(つづく)

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