かきつばた

五月の風が吹いて、マンションにオレンジの灯がともりはじめている。この淡いグレーの空の下のどこかで、かきつばたが光を失い、ただ濃紺の色だけになっていたらよい。


夕暮れ時の、光はなく、暗闇もなく、色だけになった明るさがしなびていく。五月の風がわたしに正気をつれもどしてくれる。寒くも暑くもない。おそろしくもかなしくもなく、うれしくもなく、体もどこも痛まない。

この感じを、なんと言ったらよいだろう。「おだやか」は死んだ沼の水か溶けた氷のように怠惰で、動きがない。
そうではない。まっすぐ生い立つかきつばた、その葉が指を切るときの束の間、春よりもわずかにぬるんだ水、動かない水面。この感じは、かきつばたがただかきつばたであり、自分がただ自分であるときのことだ。


息がうまくできない夜、くいしばってしまう奥歯が痛い日、例のごとく頭の痛い夜。深呼吸しようにも肋が痛む日。のどが痛い夜。ふくらはぎも膝も腫れた日。ここのところ体調がどうにもすぐれなかった。今だって熱が38度はあるだろう。

でもここには五月の風が吹いている。かきつばたの咲く五月だ。痛い、苦しい、怖い、そんな気持ちはどこにもなくて、嬉しい、楽しい、そんないたずらな動揺もない。ただかきつばたの濃い色だけがある。



やがて青みがかってきたグレーの空が、少し感情を帯びだしている。おそろしくもかなしくもなく、うれしくもない時間は終わって、わたしは明るさを惜しみ始めてしまいそうだ。


五月の風はだんだんと夜の風に変わってゆく。集中したとき、そのまま耐え難い眠気に襲われるのもどうせいつものままだ。体が左下にかたむいていく途中、目の端に屏風の金がちらついて、一瞬、八橋の道が燃え立った。

#エッセイ #かきつばた #伊勢物語


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