年若いものがいてくれること

わたしは長らく抑鬱的な状態にあった。しかしここ数ヶ月で、めきめき元気になりつつある。
きっかけはわかっている。
四月から、10ほど年の離れた女の子たちに教えていることだ。

以前は、むしろ誰かに教えなくてはならないということが、苦しみの種だった。
この仕事を始めてからも、最初は疲労感と不安が勝っていた。

しかしいつからだろうか、自分よりも年若い人たちが身近にいてくれるということが、わたしの大きな支えになってくれていることに気がついた。
後輩たちのことも、かわいくて仕方がない。

彼、彼女たちがわたしに何かくれるわけではない。みんながみんな出来がいいわけでもない。性格きつい子もいる。
もちろん、好意的なリアクションを返してもらったらとても嬉しいけれども、そういったものをもらう前から、もう年下の人たちのことが好きだった。

本当に、いてくれるだけでいい。
この子たちのために頑張りたいと思う前に、この子たちがいてくれるから頑張れている自分に気がついた。

以前は後輩がいるということが重荷で、申し訳なくて仕方なかったけれど、いつのまにか変わっていた。
周回遅れのわたしも、ようやく年をとったのだと思う。もっと早く年相応になりたかったが。

でもそこに悲観的な気持ちはない。むしろ、若い子たちがいるからこそよけいに、年をとるっていいものだよ、若いうちだけが全てじゃないよ、って示せるようになりたい。
まだまだクソみたいな世の中だけれども、わたしはあの子たちの盾になり踏み石になりたい。

フェミニスト(自称他称含む、わたしがフェミニストとは認めたくない人たちもこの際含める)たちを揶揄する言葉には、
しばしば年齢差別やルッキズムがつきまとう。「ババアが何言ったってお前なんか痴漢しねえよ」的なものだ。

これは、中高年の女性が性犯罪被害に遭っているデータがある時点ですでに無意味だし、若い女性に声をあげさせない構造があるからそうなっているということを理解してない点でなんの効力もない。
しかし根本的に、そういうことを言う人たちは、「フェミニスト」たちが自分自身ではなく、より弱い他者のために動いているということを認識できていない。
そして、年長のものが年少のものに抱く感謝と愛情を知らないのだ。

わたしも、自分がこんなふうに思うときがくるなんて、知らなかった。
学部や修士の頃、普段はすごく厳しい同性の先輩と、ふと目があって、「ほんとによく頑張るねぇ」とか、「すごいなぁ」とか言ってもらったとき、いたく戸惑ったのを覚えている。
今のわたしはたぶん、あの先輩たちと同じ目をしているだろう。

わたしは自ら進んで、若い人たちのために泥をかぶりたい。
かれらがすこしでも苦しまなくてすむように、わたしが見苦しいことや辛いことを引き受けて、叩かれて、苦しんで、恥をかいて、そうやって、水晶の玉がぴかぴか光る、明るい道をあのこたちにあげたい。
(この比喩の念頭にあるのはKristall Nacht、ツェランの詩、涙、それからチキタ★GuGuのダムダムのすみか。)

それがわたしの本望で、うれしくて、感謝してるんだよってあの子たちに伝えたい。これから出会うどんなあの子たちにも、同じように感謝していきたい。

いきなりそんなことを言われたらみんな戸惑うだろうけれど、いつか機会を見て、あなたたちがいてくれることがどれだけわたしの支えになったか、ちゃんとお礼を言おう。

#エッセイ #日記 #随筆 #愛情

わたしがあなたのお金をまだ見たことのない場所につれていきます。試してみますか?