時間がすぎていってしまう。こわい。

さまよっていたレンズが不意に焦点にゆきあたる。手さぐりで時刻は5時35分、天窓はまだ暗いが、足元の窓には曙光の末がある。

ベッドからずり落ちかけたデニムを掴み、上体を起こす。朝一番に着替えることができるかどうか。これがいのちの明暗を決める。衣服、これこそが人間を人間として生かした最大のものだ。
火、二足歩行、そんなものはどうだっていい。自分の身体のテクスチャを自分で加工できる。自分の身体を自分の外に敷衍できる。このうぬぼれが人間の社会を築いた。

わたしはわたしにしては120点満点の心の強さで朝を始めることができた。うれしい。しかしわたしは、この朝に闖入者がないか、もう不安だ。洗濯をしないといけない。干さないといけない。掃除もしないといけない。覚えているな、時間もあるな、大丈夫だ。大丈夫だぞ。大丈夫だ。動悸が少しするけれども慌てずさわがない。パンをあたためて、インスタントコーヒーをいれて、時間の過ぎてゆくスピードが、わたしの魂を置いていかないことを確認する。大丈夫だ。

その確認作業もできないときは、時間が過ぎてゆくという事実それ自体がおそろしいあまりに、どこかに救いはないか、ないか、スマホを握って探してしまう。たいてい、それはかえって時間の過ぎてゆくスピードを加速させる。本当は、書籍のかたちをとっている文章を読むのがもっともよい。書くことにも一定の時間への抵抗力はある。わかっていても、恐怖にかられた弱い心は、まやかしの救いにすがってしまうのだ。でも大丈夫だ。大丈夫だぞ。

わたしは、今日のわたしがわたしの魂を置き去りにしてしまわない程度に勇敢であることを確認して、まめまめしい文章を書き、それでも沈んでいかない心を確認する。大丈夫だ。時間が尋常の速さで流れてゆくのを確認する。本当に大丈夫じゃないか。ついつい笑う。

そんなときに決まって入ってくる仕事のLINEがある。時刻は7時半。どうしていつもこうだろう。要求されている修正は本当に軽微であり、そこには何の悪意もないのだが、名状しがたい、軽んじられる悲しさ。わたしの勇敢さはもうどこかへ飛んでいってしまう。

直さなくてはいけない。直さなくては。直さなくては。念じて9時に作業し、返信する。さんざん改悪された文章を、一生懸命、ここはこういう理由があってこういう書き方なんです、またいただいた修正案ですが、これですと文法的には猫が人間のことを悲しいと思いながら死んでいく意味になります、人間が猫の死を悲しんでいる意味にするにはこうしないといけません。送信するとすぐに電話がかかってくる。

切って見上げると、もう11時前だ。わたしの午前はどこにいってしまったのだろう。焦っているのに、頭の左上のほうから靄が走る。

時間がすぎていってしまう。こわい。11時15分。時間がすぎていってしまう。こわい。11時28分。時間がすぎていってしまう。こわい。11時39分。いやそれでもまだ大丈夫だ。11時54分。もう時間がすぎていってしまった。12時5分。いやそれでもまだ大丈夫だ。12時12分。時間がすぎていってしまう。こわい………

烏が山に帰るころだ。すこしだけ、頭をもたげてくるものがある。まだ明るい。まだ日はある。まだわたしの足は動く。少しでいい。頑張る。5時47分。いや間に合わなかった。

6時12分。わたしはにわかによみがえる。もう、勤め先によっては、店じまいだ。もう、デイタイムの中心域ははずれた。死んでしまったひとは二度と死なないので、もう、時間が流れるのを恐れなくていい。太陽は沈みきった。もう大丈夫だ。

大丈夫だ。わたしは恐ろしいものからよく逃げた。大丈夫だ。逃げたから今日も生きている。大丈夫だ。明日も大丈夫だ。大丈夫。

これだけ不安でも、わたしはちゃんと日付が変わるころには布団に入る。何が重要なのかわかっていてわたしはえらい。


ここまで書いてみて、書き手のわたしは、「わたし」とは誰のことか、これは日記なのか随想なのか虚構なのか、実はわからなかったりする。





わたしがあなたのお金をまだ見たことのない場所につれていきます。試してみますか?