彼我の差

後輩が、立派なところで立派な発表をしたようだった。
彼はツイッターに、道端の花なんかの写真とあわせて、会場の、スクリーンに自分の名前と発表題目が写っているときの写真をあげていた。

それは絶望的な距離だった。わたしには絶対できないことだった。

一生懸命、自分は研究をする資格がある、能力もある、すべきこともある、と言い聞かせている。
事実、わたしは学部生のときなんかは、研究がしたくてしたくて、お風呂の中でもずっと考えていたし、
レポートを課されたりしていないようなことでも自発的に考え、調べて書いたりしていた。

本当のわたしというものがあるなら、その人は、研究をしたがっているはずなのだ。

大学院にはいってからだって、本当に楽しかった。修論を書いたとき、とりあえず研究をやっていけそうだ、という感覚は掴んだ。
少なくない額の研究費ももらった。
研究する資格どころか、研究する義務を課された身だ。

でも、どこから箍をなくしたのか。
心や体が動かない。人の視界に入るのが申し訳ない。誰に会うのも恥ずかしい。誰かに認知されて、脳のリソースを割いてもらうのが申し訳ない。
後輩の彼みたいに、自分の発表題目を写真に撮ってみせる、なんてことは到底できない。

わたしに欠落していたのは「見てもらいたい」「見せたい」という欲求だった。そしてその欠落の根底にあるのは、自己肯定感の欠如、ってやつだろう。たぶん。それにずっと気がつかないまま、研究の道を選んでしまったのが失敗だった。

ずっと自分のことを、自己顕示欲の塊のような、卑しい生き物だと思っていたのだが、今のわたしは、「見られてもよい」と考えることさえできない。
まして冒頭の彼のよう見られることを欲求できるようになるなんて、めまいがするほど遠い。

わたしの畏友も、文を書く人であり、また人前で発表したりする人だ。
彼女は修道女のようにストイックで、自分の身を削り彫琢しているような、苦しい美しさをいつもたたえている。

でもそんな彼女でも、自分の名前で文章を出せるし、出した時はちゃんと告知するのだ。
こんなものを書きました。読んでください。こんな発表をします。と。

わたしは今まで一度もそんなこと、できたことがない。なにせ、抜き刷りを作ったことさえないのだ。
作らないのではなく作れない。論文をどうにか出すのが精一杯で、もうそれ以上は無理だ。
名刺も、ずっと切らしている。

もしわたしに彼女のストイシズムがあったなら、間違いなく、言葉を失っていただろう。
自分に言葉を持つことを禁じ、発することを禁じると思う。食べることも禁じるし、自ら死ぬことも禁じて、ただ自分から自分が削げていくのを待つと思う。
心弱いわたしにはそれができないから、くらげなして中途半端に漂っている。

そして彼女は、ちゃんと生きている。あんなストイシズムを抱えていながら、どうして言葉を発することができるのか、切に知りたい。

でも、思い返せば学部生の頃は、自分の発表を聞いてもらえることに心から感謝していたのではなかったか。
修論の頃は、友達が発表を聞きに来てくれたら嬉しいと思っていたのではなかったか。

いつから、同じ苦痛の中にひきこもり、ここまで傲慢になった。

空費された(この「た」は完了ではなく存続)この数年間を、どうして心なく放置できた。

理由はわかっている。理不尽な苦痛がいくつかあった。悪気のない不運も少し重なった。
わたしが悪いのではなかった。でも、わたしが引き受けるしかなかった。
わたしは無能ゆえに、自分を潰さなくてはそれらをやり過ごせなかった。

ほかに手はあったのかもしれないのだが、目先の苦しさに甘んじて、自分を俯瞰し、自省し、相対化する目を持とうとしなかった。
読んだもの、論文、レジュメ、カレンダー、日に日に、整理できなくなってゆき、一緒に自分も把握できなくなった。

以前は「消えたい」という欲求が強く、「死にたい」とは思わなかった。
ピリオドを打つことは自分のフレームを作り、完成させることであり、消滅とは似て非なるものだと思っていた。
最近は別に死にたいと消えたいの違いにも拘泥しなくなっていて、もう消えること自体無理なのだから全部諦めてもよいではないか、というような思考も出てきねいる。さらにもう一つ底が抜け落ちたようだ。

いま、こんなにも存在したくないわたしは、本当に、平常のわたしなのか。少しずつ思い返せば、違う気がしてくる。
少なくとも以前は、文章を書きたいし、読んでもらいたいと思っていた、書きたいこともあった。そんなときがあったはずだ。

まだぎりぎり、そういう自分に戻りたいという気持ちは残っている。ある程度の反省もある。とりあえず部屋を片付けるべきだ、というわりあい真っ当な解決方針も持っている。
暗い思考回路に溺れ出したとき、努めて自覚的に、思考を打ち切っている。

しかし、欲求という、認識の自覚的な操作が一歩出遅れる領域では、わたしはまだ弱く、生身同然だ。
だから彼我の差の、あまりにも大きなへだたりに衝撃を受ける。

前のような自分に戻るてがかりが、たぶんまず身辺を整理することにあるだろうということは、わかっている。
(小学生の頃からインテリア雑誌を愛読していた人間がこんなに片付かない部屋にいて平気なはずがないのだ)

それとも、誰かに話を聞いてもらうのも、悪くないのかな。
わたしを苦しめた理不尽は、臨床心理士案件2つにその他の病院案件2つで、ずっと友達に相談しようなんて気は起きなかった(なら素直にカウンセリングを受けるべきなのだけど…)。

しかし例の畏友には、どうしてあなたは言葉を失わないのかと、聞いてみたい気もする。
さて、ねむい。歯をくいしばる癖があって痛くて眠れはしないのだが、

#日記 #エッセイ #自己肯定感

わたしがあなたのお金をまだ見たことのない場所につれていきます。試してみますか?