見出し画像

健康ってなんだっけ。

みなさん、こんにちは。Ongoing Support合同会社CFO、健康経営アドバイザーの多田陽子です。

今日は普段使っている「健康」っていう言葉について考えてみたいと思います。というのも、弊社、Ongoing Support合同会社は、ひとりひとりの健康維持に役立つプログラムを開発する会社です。健康維持って言われてもどんなことするの?、なに運動?サプリメント売るの?と思いますよね?

もちろん、運動もサプリメントを摂取することも、健康維持のために必要で影響していると考えます。ですがどちらかというと手段の方が先になってしまって、本来の健康についての議論がないなと思うんです。なので一緒に考えてみたいと思います。


「病気がある状態」から「病気がない状態」へ戻るのが難しい時代へ

ニッセイ基礎研究所の三原岳「健康とは何か、誰のための健康づくりなのか~医療社会学など学際的な視点からの一考察~」は、健康を理解するのにとてもよく整理されていますので、これからお話しすることは、三原氏の論文の影響を受けております。原文へ戻って確認したい方は、ぜひそちらをご覧ください。

まず健康を考える前提として、疾病構造の変化の理解が大切です。

1950年代までは、結核を代表とする感染症が上位を占めており、「不健康=病気がある状態」と「健康=病気がない状態」(※1)と簡単に切り分けられる状況だったため、


『患者を通常の社会的役割に戻すことが医療の役割になり、さらに医療政策についても患者の早期社会復帰を促す医療保険の拡大・拡充か、感染症を封じ込めるための公衆衛生に力点が置かれていた』


とのことです。新型コロナ感染の際は、この封じ込めに力点が置かれたということですかね。

※1 これを表すのが医療社会学の「病人役割」(sick role)である。


その後、慢性疾病が中心となってきた時代となっては、慢性疾患の患者は「病気がない状態」に戻るのは難しく、逆に病気や障害と上手く付き合いつつ、通常の社会的な役割を果たすことが可能なため、それまでの医療社会学でいう「病人役割」も適用することが難しくなってきたのです。

さらに、現在は高齢者人口の増加に伴い、心身の不具合を恒常的に感じている人は増えていますので「病気がない状態」の方がますます少なくなっていくと想像できます。

健康の定義

健康の定義については、WHOが「健康とは病気がないとか弱っていないというだけではなく、肉体的、精神的、社会的に完全に満足な状態であること」と定義していますが、現代にはこの定義がそぐわなくなっていると感じます。

三原氏は
『アメリカの著名な微生物学者、ルネ・デュボスは、「人間がいちばん望む種類の健康は、必ずしも身体的活力と健康感にあふれた状態ではないし、長寿を与えるものでもない。(略)各個人が自分のためにたてた目標に到達するのにいちばん適した状態」と定義しており』、

また

『オランダの女性医師であるヒューバーらが提起した新たな健康の概念もそれに共通している。ここでは「完全に満足している状態」とするWHOの定義が医学で対応せずに済む問題を医学で解決しようとする「医療化」などの弊害を招くとした上で、健康を身体的、精神的、社会的な側面で環境の変化や問題に「適応し、対応できる能力」(the ability to adapt and self manage)と定義』
していると紹介しています。

近年以降は、健康は「病気の有無ではなく、環境変化や問題に適応、対応できる能力」へと定義自体が変化していることを、まずは多くの方がこの認識へアップデートする必要があると感じます。

主観と客観の食い違い・社会的基準のあいまいさ

また三原氏はさらに議論を発展させ、健康に対する主観と客観のズレについても指摘しています。

三原氏の論文から引用

上記の図を引用すると、Bのケースはたとえば女性の不定愁訴などが当てはまるのではないでしょうか。生理休暇を取得可能になった企業もあるようですが、生理や更年期の症状などで貧血や頭痛、腹痛などで集中しづらい症状がある場合、客観的には健康に見えるが、主観的には不健康というケースがあるだろうと思われます。

またDのケースは、身体的な障害があったり、精神障害などで客観的には不健康、つまり病気や障害がある場合でも本人はその状態を乗り越えており、それ以外の部分で満足している状態の場合は主観的には健康というケースもあるだろうと思われます。

このDのケースを考える際に、社会的基準は常に正しいのかと三原氏は映画を例に挙げて指摘していますが、社会的基準は時代ごとの価値観や社会規範に応じて変化します。

『例えば、障害や性的マイノリティー理由に差別してはならないという考え方が定着したのは最近に過ぎず、以前は「異常」と見なして社会から排除していた。この事実を踏まえれば、正常(健康)、異常(不健康)を判断する社会的基準が常に正しいとは限らない。
言い換えると、社会的基準だけで健康(正常)、不健康(異常)を判断することは簡単ではなく、健康か否かの線引きには様々な判断が有り得るし、主観と客観の間でズレが生まれる可能性を指摘せざるを得ない。』

つまり健康とは、病気のあるなしでなく、また社会的基準で考えるだけでも足りず、やはり自分自身が現状に満足している状態かどうかを指すものだと考えます。

主観的な判断力の不足

ここまで健康について考えてきたうえで、自分のこととして振り返ってみると、私たちは意外にこの社会的基準に沿って自分の健康を測る癖がついてしまってはいないでしょうか。

健康診断、カロリー摂取量、体重、体脂肪、血圧、、、。
どれも定量的な数値として表せるものですが、個体差や社会的基準があることを忘れてはいけません。

日本人に健康について調査したアンケートによると、7割の方が自分は健康、健康なほうであると答えているにも関わらず、6割の方が健康に不安を抱いています。

もしかすると、私たちは自分の健康について主観的に捉えることが下手なのかもしれません。あるいはその捉え方を知らないだけかもしれません。そのため、客観的な指標のほうへ寄りすぎていて健康に対する判断が極めて定量的な分析の方に偏ってしまい、定性的な自身の状態を勘案できていないのかもしれないのです。

健康とは

健康とは、主観的な判断力を持ち、客観的な数値を目安としてあるべき理想を維持している状態ではないでしょうか。

主観的な判断力には、自分のからだの状態に耳を傾けることから始まります。頭痛がするから薬を飲むという行為を、①どんな頭痛なのか、②どんな時に起きているか、③どんな状態だとやわらぐのか、これを医師や薬任せにするのではなく自分でも考えてみることが大切です。

また、肩こりや腰痛などもどんな行動によって引き起こされたか、どんな状態が一番つらいのか他者に説明できるようになると原因が早くつかめたりします。

時間的に余裕がない、自分に構う時間がとれないから医師や薬に頼るんだと考えた方いますよね?それこそがまさにあなたにとって健康な状態ですか?と問いたいのです。その状態が続いていれば必ずどこかで健康状態に影響が出てきます。病気とは、日々の生活のリズムの乱れや環境変化による過剰なストレスなどから引き起こされたもので、定期的に生活を見直すことができれば大きな病気にはなりえないと思います。

主観的な判断力とは、これまで医師や医療従事者へその判断を委ねていた部分を少し自分の方へ取り戻し、日々の変化に適応し、見直す力のことです。

この能力は、忙しい現代人ひとりひとりに心がけようといっても、社会全体がこのことを認識し、受け入れるようにならなければ育たないと思います。

わたしたちは、企業や自治体へ働きかけ、社会全体でこの能力を高めていく活動を行っていきたいと考えています。ひとりひとりを大切にできる場を増やすために!!







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?