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無意味なマッチョイズムで負ったその痛みに意味はあったのか?? 映画レビュー/ジョナ・ヒル『mid90s』/3788文字

自分が学生時代を過ごした 90 年代や、
映画を1 番刺激的に感じながら観れていた00年代の作品の雰囲気を
この作品もまとっており、とても懐かしく刺激的だった。

この時代って(90-00 年代)平和で物も溢れて豊かだったけど、
じめじめとして陰気でどこか退屈な感じ=「終わりなき日常」という雰囲気が
漂っており、そこに対して刺激を求めたり虚無感に陥ったり
終末思想みたいなモノを抱く人々も多くいたと思う。

そういう90-00年代の作品でいえば、
デヴィッド・フィンチャーの「ファイトクラブ」、
ガスヴァンサントの「エレファント」
エヴァンゲリオンだったり潮田明彦の「害虫」だったり。

事件でもオウム真理教の信者などは、
学歴も金あるのに社会の中で満たされない人々の集まりであったり、
ショッキングな少年犯罪が続き『キレる10 代』というワードが
ワイドショーよく叫ばれていた記憶がある。
事件関しては、それぞれ理由は違うけど総じて、あの時代の閉塞感は、
今の時代の雰囲気とはまた違ったもので、それも大きく影響していたと思う

この映画自体も、そういったじめじめとした陰気な雰囲気と
マッチョイズム的なものが同居したネット普及前の閉鎖感みたいな
時代の空気感を描きつつ、『痛み』というテーマを中心に
 LA のスケボー少年たちの姿を描いていくものでした。


映画はだいたい冒頭にその映画のメッセージが詰まっている事が多い。
この映画もそうで、兄から暴力を受けて出来たアザをスティービーが
自ら叩いて痛めつける場面がある。
痛みに耐える=強い男 への憧れを連想させるシーンである。

他にもルーベンがスティービーにとる虚勢なども
マッチョイズムへの憧れを感じさせるし気弱な兄であるイアンが
それを隠す様に体を鍛えるシーンもそうだ。

こういった無意味であったりマウンティングによるマッチョイズムは、
男の子ならよく取り憑かれる思想だし、反対に男性に押し付ける女性や男らしいと認識する人もいる。


さらにその思想は他人にも強要する事でさらに広がっている。
「俺の時代はもっと酷かった」「俺はこれぐらい大変だった、お前らもやれ」的な
マッチョイズムの押し付けとマウンティングの取り方は
今でも会社や根性論がまかり通る部活動の世界ではよくある。

この映画は、そういった『無意味な痛み』への反省
の様な映画であったと思う。

あと印象的だったのが、『痛み』に対する恐怖心がない弟のスティーヴィーと、
体を鍛えて外見の強さを誇示し『痛み』を避けて生きてきた兄のイアンの対比だ。


生物学的に痛みとか恐怖は生存する為に必要な能力であると共に、
そこから学習して進化する為の要素でもあると思う。

そう考えると弟のスティービーは、
そこから何も学ばず命の危険を何度か経験する。
観客から見てその姿は無防備で警戒心がない小動物の様な存在に思え、
心配で目が離せなくなる。

反対に兄のイアンは、自身の弱さを隠す様に心を閉じた存在なので、
観客から見て異様な存在に感じる。
しかし、弟の前でファックシットになじられ、スティービーにも『女も友達もいない癖に』と馬鹿にされ、その隠していた心情や心の弱さが爆発する。
こういったシーンは冒頭で語った90年代から00年代ぐらいに言われていた
「キレる10代」や、ガスヴァンサントの「エレファント」の不気味さや
陰気な雰囲気と共通する。

さらにイアンの陰気な性格、不気味な雰囲気をうまく表現していたなと思うのが、
マスクを頭に被って食事をしているシーンと
スティービーとゲームをしながら昔の母親の話をする所だ。

スケート仲間との楽しい時間を過ごしてきたスティービーを
嫉妬混じりの表情で見つめる視線と対照的におどけたマスクを頭に乗っけた姿が
異様で気持ちが悪い。
ふざけ合う相手がいる状態で被っているなら、微笑ましい印象だが、
母親との暗い雰囲気の中で無言で被っている事で
不気味が増幅されていると感じた。


そして2つ目の兄弟でゲームをするシーン。
この前の場面に当たるのが、イアンが道端で
スケートしているファックシットとぶつかり、なじられるシーン。
それを目撃したスティービーの居心地の悪さと、
弟に見られたくない場面を見られた屈辱的な思いをしたイアンという流れがあり、
このゲームのシーンでの会話と繋がってくる。

そこで話されるのが、スティービーが生まれる前に母親が、
家に頻繁に男を連れ込んでいたという内容で、
それを聞いたスティービーが「かあさんはクソだ」と呟くのですが、
ここでなぜイアンがスティービーにこの話をしたかというと、
屈辱的な場面を見られた悔しさと、
スティービーへのマウンティング的な意味があったと思う。

ルーベンがスティービーに
「礼を言うなんてお前ゲイか?」というシーンもそうなのだけど、
優しさや思いやりというモノが、マッチョイズムの中で
弱さや女性的なものと捉えられ、馬鹿にされているのだと思う。

このゲームのシーンでもそうで、
母親というもの大切に思う普通の思いを兄であるイアンが踏みにじり、
スティービーに対してマウンティングを行っている。

あとこの映画が、ラリークラークの「KIDS」などの
生々しい当時の子供たちを描いた映画違う所は、響く層の違いだと思う。
「KIDS」などは、同世代の若者には大きな影響を与えたと思うけど、
上の世代には、ひっかかる要素があまりないと感じる。
それ終始、若者たちのたちの目線で時に生々しく描いているから。

でも、「mid90s」はより多くの層に届く作りと、観客が
年齢を経て再び見た時に、また違う視点で映画を楽しめる様な多面性がある。

それはここに至るまでに語った、スティービーのあまりに恐怖や痛み対して
警戒心のない存在が、かつて90年代を過ごした観客に、
当時の事を懐かしみつつも、母性や父性を呼び起こし、
違う視点を生み出したからだと思う。

さらに、近年フェミニズムが叫ばれ、以前から抱えていた差別的な問題が
人々の目に当たる様に表面に浮上し始めたのも、
この映画に大きな影響があったと思う。

90年代は、世界で毎年戦争での死者数が18万人だったのが10万人に減少し、
その後も更に減少。舞台となったアメリカでもこの時代は経済的な成長を続けており、失業率も33年ぶりに定水準まで落ちたという。

そういう社会全体が好調な流れの中でも、
貧困、差別、暴力に苦しんでいる人は絶対数、確実にいる。
でもそういうある種、裕福時代においては、その声は無視され届きにくいし、
今の時代の様にインターネットは普及しきっていない為、声を上げ、
輪を広げ対立構造に持って行く事さえ出来なかった。

監督は、フェミニズムなどが広がりをみせる今の時代の中で、
90年代のマッチョイズムの中で負った痛みが実に無意味であったか、
そしてそれを今だに続けてる一部の人間に、
この映画を届けたかったのだと思った。

それを象徴しているのが、
終盤に病室でのレイがスティービーに向けた
『お前が1番大変な体験をしているな。そんな必要あったか?」という言葉。
それを同じ病室で聞いた仲間たちの、居心地の悪そうな表情も印象的であった。


撮影に関しては、
スタンダードサイズのタイトな画角が、より人物の表情を捉え、
キャラクターの個性を引き立たせていた。

例えば 16:9 に近い様な画角で撮影した場合、
被写体と背景とのバランスや構図に意図的なモノを
感じさせてしまいがちだと思う。
もちろん 90 年代のノスタルジー的な意図もあるとは思う、
でもより効果的だったと思うのはタイトな画角で人に迫るという効果だった。

更に、色々な意味で背景というのもこの映画には関係ない。
先程も言ったタイトな画角による背景の少なさだけでなく、
キャラクターたちの背景(生い立ち、家庭環境)は映像では説明されず
台詞のみで語られる。

それは登場するシーンが凄く限定されている事もあったと思う。
主人公スティーヴィーの家、スケボーショップ、スケートパークなどがメインで、
その他の登場人物たちの家のシーンなどは全くなく彼らの家庭状況は
台詞で語られるのみだった。
彼らを繋ぐのは(私たちの子供時代もそうだけど)、
共感や遊びから得る共通体験であり
それぞれの育ちや環境は関係ないという意図もあったと思う。

現に、レイやファックシットはスティーヴィに対して、
先生の様にスケートを教える事はしないし、
一緒に滑って遊んで同じ時間を過して関係を作っていったように思える。



少し疑問というか分かりづらいなと思ったシーンもありました。
それは終盤の病院の待合室でレイなどがソファーで寝ていて
スティービーの母親が、その姿を見て、レイに「息子と会う?」と聞くシーン。

今まで、母親とこの仲間たちは対立関係にあった上に、
さらに息子を事故に巻き込んだ彼らと母親が歩み寄る理由が分かりませんでした。

もしかしたら、彼らが何日も病院に通っているシーンが実はあり、
その行動をみて母親が歩み寄るという繋がりだったのかもしれません。
終盤でそれをいれるとだれるからカットしたのかなとも思います。

私が思ったのが、レイが母親に事故に合わせてしまった事などを含めて
一言謝れたら互いが歩み寄る理由が負に落ちるなと思いました。
しかもそれは、ただの不良少年と母親の歩み寄りだけじゃなくて
マッチョイズムとフェミニズムの歩みよりにも置き換えれるし
すごく意味のあるシーンになった気がします。

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