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教科書を読むこと、活用すること

 もし一般的に教科書には正しいこと(正解)が載っているものなんていう事が前提だとしたら学校は正しい(正解)を教えるところになってしまいますね。それなら教師は正しい(正解)とされていることを生徒にどう理解させるか、身につけさせるかの仕事がより重視されることにつながってしまうでしょう。

  • 教科書に書いてある内容を理解すること

  • 教科書に書いてあること(考え方や価値観)を正しい(正解)普遍的な真実と事実なのだと鵜呑みにすること

 それぞれイコール(=)ではないんだよ、ということは家庭で話る機会はあってもよいと考えています。


マガジン『ホームスクールまなびのエッセンス』
#2

注;2018年10月14日投稿の#2のタイトルですが、操作の誤りで本文のほとんどを消失してしまったので、新たに書き直したものです。

Essence:使いこなす


 「ホームスクールの学習のツールとして”学校の教科書”を活用するのは難しい」と個人的には思っています。ここで留意してほしいのはkokageで提案しているホームスクール・ホームスクーリング・アンスクーリング・School at homeのそれぞれの概念を前提に読み進めて頂くことです。

ホームスクール、学習の進め方の考え方

 学校教育の代替ではなく、自由教育(オルタナティブ教育)のホームスクール実践を考え続けるkokageですが、今回はあえて「学校からの観点」をベースにして、ホームスクールの理解を進めていきます。

学習指導要領の進める学習課程に制限されないでよい

 このフレーズは「順番を前後する」意味にも解釈されているようです。
 教科書は複数の出版社から出されており、学校によって採用する教科書が違います。すると学年を通して1年間で学ぶ内容は変わりませんが、授業で扱う単元の順番は多少前後することもあるとわかります。
 各単元を履修する順番が1年間のなかで前後しても、学年をまたがって前後するものであっても、学年相当の期間内にすべての単元を履修することができればよいとは、ホームスクールの学びでは考えません。「学年を超える」といっても、「小学生学齢期では、小学校の学習を履修している」「中学生学齢期では、中学校の学習を履修している」といった限定的な自由度の度合いを意味するだけにすぎないからです。

 School at homeの学びの進め方では、逆にこの学習の進め方が重要になります。目的に進学や進級があるためです。

 ホームスクールでは《学年》の区切りに制限される必要を感じません。それは確かです。そして「単元ごとに学習する」意識も少し異なります。けれど「体系的に学習する」ことは重要だと考えます。

 ホームスクールでは、教科書に沿った学びから解放されると、目の前に現れる興味関心の追究を制限するものがなくなると分かります。「いつからはじめなければならない」とか「いつまでに終えなければならない」といったことが基本的にありません。しかし点と点が結ばれた時に、学習は体系化するのです。

 「虫食い」状態で、好きな単元や得意な単元、理解できる単元だけ取り組めばいいということでも、もちろんありません。それは単なる穴あき状態になってしまう上に、体系的な学習の全体像がつかめないままになってしまうので、興味の広がりが期待できません。
 教科書は「体系的な学習の存在」に気づく時に活用することができます。
例えば、「なにが理解できなかったから、今、これが理解できずにいるのか」を、教科書の単元をさかのぼって、学び始めることができます。逆もしかりです。「これを理解するためには、最初になにを理解するとたやすいだろうか」といった学習の進め方を好むこどももいるかもしれません。
 そういった「体系的な学習」を進めるときのガイドラインに教科書は使うことができます。

日本文化としての教科書

 多くの人は一条校に就学して勉学を修めます。学習指導要領に沿った学習課程に従った年間計画があり、行事もあり、1日のスケジュールは45分や50分ごとにめまぐるしく展開します。そのような過ごし方を経験してきました。
 教科書を見れば「なにをどのように学んできたのか。」「どのような考え方を身に着けることが正解とされているのか。」といった学校に通ってきた人々の「あたりまえ」が見えます。いわゆる日本の学校に社会化した(適応した)人の思考パターンがそこにあります。
 すると、仮になにか意見の衝突があったとしても、「なるほど、お互いに知っている”あたりまえ”が違うのだ」といった考えを前提に持つことができます。

 「なにに気づき、なにを目安にして、どのように課題を解釈し、なにを参考にして、どのように考えを進めて、どのようにまとめればよいのか」の”考え方”や”解答の導きかた”のようなものが教科書にはあります。
 それはひとつの考え方の癖ともいえます。思考の癖ですね。
 どの教科でもそうですが、それらが道徳的に身に沁みつきます。その方法や手段が大多数のなかで一般化するので、ある種の共通言語や共通理解として通じるので空気が読みやすくなるのでしょうね。同一集団の構成員の間では「なにをどう考える」が互いに予想できるわけですから。いわゆるムラ社会です。

 ホームスクールでは、この所属意識からもっとも離れて、客観視できる位置に立つことができるでしょう。それは諸刃の剣と感じる人もいるかもしれません。同化できないために生じる客観性と、同化できないために生じる違和感はアイデンティティを揺らがせることもあるかもしれません。けれど、『在り方・生き方』のひとつです。その道を行けるか否かは、選ぶことができません。するか、しないかではなく、「できる・できない」の能力的なものだからです。その道しか選択肢がない不器用さを感じます。
 

教科書は、学校教育のカタチで採用される道具(ツール)

 学校の教室の中を思い浮かべてみます。

  • 教卓

  • 黒板

  • 指導書を持つ教師

  • 整列している生徒の椅子と机

 実は世界各国では、机や椅子の配置の仕方や、机や椅子そのものの形態も、異なっています。それぞれの教育思想や概念を反映しますから当然です。
 日本の教室の中の様子に移っている教育思想や概念はどのようなものでしょうか。

  1. 教師が生徒を指導する

  2. 板書する

  3. 口頭で伝達する

  4. 順番通りに順序良く進める

 こんな感じを思い浮かべることができます。そのスタイルに都合よくできあがっているのが教室に見える風景です。

 ホームスクールでは、かならずしもこのスタイルでなければならない理由がありません。

  1. 親は教師ではない

  2. 聴覚優位と視覚優位で、脳の情報処理の特性に合わせた方法を取る

  3. 全体像を把握してから、手順をみずから導き出す(「全体優位性」と「局所優位性」)

  4. 試行錯誤する

 そんな風景が目に浮かびます。

 教科書は、それを活用する場に適した内容でまとめられています。
 それにとらわれることなく、こだわることなく、自由に使いこなす意識で向き合うと愉しめます。


 

学習用語集としての教科書

 学校の教科書は、従うべきものとせずに、よき参考書として上手に使いこなすつもりで活用していくことができます。
 算数の計算式の表し方でも日本と諸外国で少しずつ違っています。そういった違いも確認することができます。日本で使われる教科書は、日本の共通言語だと言えるでしょう。そのことを知っているだけでも、多様性の存在を感じることができます。

 各単元のタイトルや教科書内で用いられる語句は、学習用語の共通言語となっています。日常でも算数的な言い回し、理科的な言い回しを使います。「足す」「引く」「分ける」「分割する」「割合で示す」「沸騰する」「融和する」「還元」「酸化」「比率」などなどです。気温、室温、水温など温度の表し方もそうですし、天気予報を理解するために必要な語句もありますし、ことわざや比喩、詩的な表現も欠かせません。
 なにかを説明するために使う図や表、目的別で使用する地図のいろいろもあります。
 これらの共通言語は、そのまま日常語句になっています。
 なにかを調べるときにもこれらの語句を知っていると検索が容易です。

 これらはホームスクーラー(親)が意識して、日常会話で使います。

 「新聞が読める(語句を理解して読むことができる)」ことや、「解説書が読める」など目標設定ができます。その到達度や年齢に制限はありませんが、生活上不便のないことが重要だと考えますので、「役所の書類を読んで理解できる」「法律の条文を読んで理解できる」「選挙の公約文が理解できる」「契約書を読んで理解できる」等々の課題は必要に応じておのずと浮かんできます。ひとりひとりがそれが必要となる機会に触れた時に、理解する必要があると分かっているならそうするでしょう。
 料理をする人は、料理に関する語彙力が深まります。洋裁をする人なら洋裁の語彙力が。それぞれの興味関心によって広がる語彙力はある程度の分野に分けることもできますが、もっとも重要なことは、深く理解していることです。深い理解とは、本質的な理解、根本的な理解です。それは分野を越えて、共通する概念であり、ただ表現方法が異なるだけということが理解できてくるからです。
 その”人間の表現力”の多様性に、魅力を感じます。

公教育の役割

 教科書の模範解答は一例だと考えればよいのですが、さらに個々の応用と展開を拡げる機会は重要な学びです。しかし公教育は、一定水準の教育を身に着けてもらうことがもっとも重要な役割です。その観点でいえば、一定基準まで生徒全員の到達を図ることがもっとも重要な公教育の役割です。
 公教育である学校教育は全体の教育基準を支えることが役割のひとつです。そこには福祉的意味が特に多くを占めます。

 その役割は「学校」が誕生した時代では特に必要なものでしたし、現代でもやはり必要とされています。しかし、どこまでが公教育で支える教育基準なのかの議論は常にされています。



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