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「心配だよ」という呪縛よ、さようなら

 2019年7月26日は私にとって記念日になりました。だから、つぶやきますね。

 私は生まれた時から母の味方にならねばなりませんでした。
 私は父にとっての「よい子」でいつづけなければなりませんでした…。



 私のことを、曰く「とても心配している」父は、私の生活を支えます。私の老後の住まいまでも考えています。自分が亡き後の私のことをまったく交流を断っている他のキョウダイに頼んだとアピールもされました。そのプレッシャーたるや、その私が受けるストレスたるや、周囲のから見れば感謝の足りないムスメということになるのかもしれません。そして自立できていない不足な人間だと思われるのかもしれません。けれども、私は知っています。そうならざるを得なかった私と似た人々がたくさん世の中にはいることを。

法則の使い手が傍若無人だったら…

 思いはエネルギーですね。今はどうか知りませんが、一時期「引き寄せの法則」というものが流行りました。引き寄せる中身が善であるか、結果的に悪に帰着するかは関係がないように見えますね。ただ法則という真実があるといった具合です。引き寄せる法則の使い手の意思が実現するようです。その意思とは何か。
 ひとことでいえば、たぐいまれなる異常な執着心です。

 神無月に出雲に集まる神さまはどんな話をされるのかを知っていますか?聴いた話ですが「出会い」の縁を結んでいく話し合いなのだそうですよ。この1年のひとりひとりの人生を振り返り、次の年に、いつどこで誰に出会うのがよろしいか、を互いの神さまが見守る人のご縁の結び方を相談なさっているのだそう。
 なるほど、です。それは、法則を使った理(ことわり)なのですね。

 私はファンタジーな物語もなかなか好きなのですが、例えば、使う資格の無い者が魔法の呪文を唱えてしまったら?その魔法は発動するのか?を考えてみますと、どうやら発動してしまうようです。しかしながら、資格の無い者が勝手にすることなので、前後の縁(えん)などお構いなし。ひいては、願った本人にとっても、その周囲の人間にとっても本来あるべき人生と、その人生からまなぶべきお題をも奪われてしまうという始末。道具や知恵は、ふさわしい物が使うからこそ効力が有るのですね。

 引き寄せの法則を知る人は、無意識にでもその法則を日常的に使ってしまうのでしょう。どうやらその”法則”とは意識しないで使えるようになることが前提のようですから。さて、そんな無意識レベルで想いのエネルギーを実現する力を持つ人が「心配」を動機にしてその法則を発動させたら、どうなるでしょうか?
 ご想像の通りです。心配したとおりのことが実現します。それが「心配してあたりまえだろう。親なのだから!」と感情的な理由だから発動されないなどの例外は適用されません。エネルギーが生じた理由など関係ありません。「発した運動エネルギーが対象に向かって作用する」が事実です。

 執着によるエネルギーは絶大で、エネルギーの大きさはそれが正しいか、正しくないかに影響されません。波の強さに例えると、小さい波は浜遊びに最適かもしれませんが、電力を作るには力不足でしょう。大きい波は電力を作るには充分かもしれませんが、海で遊ぶときには危険なものです。エネルギーの大きい、小さいで善悪は測れないのですね。


大きな親切 絶大な強奪

 かつての私の父という人は「我が子は、庇護を受ける弱い存在である」という子を持ったばかりの若い親だったはずです。その固定観念をどれだけ年月を経ても崩すことができないのはなぜでしょうか。
 時間的観念が失われていて、子が成長しているという時間経過がわからないようなのです。本来ならば「成長発達段階として乳児期幼児期の子どもは親の保護を受けるべき社会的にも生物的にも、ひ弱な存在である」に時間的に限定されていることの理解のはずであったものが、やがて「自分の子どもとは、親の庇護の下、弱い存在である個体」といった認識に固定していました。
 時間的経過が認知できないというのは、ある種の認知特性なのだろうと私は次第に理解して受け止めています。人は同じ視界を目にしていても、認識する情報は個々で違っています。しかし違いすぎれば、そこに不具合が生じます。同じ景色を目にとめながら、違う世界を眺めているかのようです。

 「自分の子どもは、親の庇護のもとでしか生きられない弱い個体なのだ」という認識は、「自分の子どもは、親の庇護のもとでしか生きられない」状態を固定化し、その現状を望んでいる状態です。そして、その現状からはずれることは「ありえない」と確信しているので、”それ以外”の状態を認識することが不可能です。”それ以外”の可能性を想像することはもちろん、思いつくこと、ハッと気づくことはできないのです。いつまでも「こうであるはずだ」という姿を頭にしっかりと描いていますから、現実の相手(この場合は我が子)に対して事実とは違っていても、思い描いているイメージのほうが現実であるかのような立ち振る舞いをします。立ち振る舞いは「そうであれ」という期待です。
 親の絶大な期待に、子の立場では抗いようがありません。「親の庇護の下でしか生きられない」という呪いをかけられ続けます。その呪いは、誰にも見えない隠れた首輪です。首輪をされた本人にとっても、それは見ることもできない、説明することもできない、真綿でつつまれて正体がよくわかりません。ですから、「あなたが悪いのではないの?」と言われれば、そうなのかもしれないと思うし、反論する方法も見つけられないのです。

 呪いの正体は、執着という膨大なエネルギーによってつくられた念。つまり執念です。平凡で善良なか弱い子どもなど一捻りという感じです。か弱いこどものイメージが、その深い念によって投影され、親の強い執着心によって期待通りに実現するのです。そうして親は満足します。「ほら、思った通りだ」と。

 「毎朝、ご主人に言ってごらんなさい。(あら、あなた、なんだか今朝は顔色がよくないわよ?大丈夫?)。一か月もすれば、ご主人は立派な病人になっています」とは児童精神科医の先生が、講演でおっしゃった言葉です。まさにその通りです。
 「この子は、親の庇護のもとでしか生きることができない弱い個体である」と確信して臨む態度はどのようなものになるか。言外にも、まとう空気にも、それは表現されます。敏感で繊細なこどもであるほど、それを非言語コミュニケーションとして受け止めますが、非言語であるがために、第三者に説明することが困難です。なんの策も無く、からめとられます。

 思いは、態度になり、態度は言葉になり、言葉は呪いとなって襲ってきます。それが、親にとっての「子への愛情」という名前で語られようが、その動機が執着であるからには、束縛と呪縛でしかありません。

 

上書きされた呪詛

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