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”ホームスクーリングを伝える”とき~その理由~

 『”ホームスクーリングを伝える”とき』シリーズです。


 ホームスクール(ホームスクーリング・アンスクーリング)を始めた理由はなんですか?

 そう質問されることはありますか?
 わたしは、あったようななかったような…。定かではありません。なんだか漠然とした質問なので、どのように答えたらいいのか、なにを聞かれているのか、いつも考え込んでしまいます。
 「ホームスクールを始めよう!」と思って始めたわけではないからかもしれません。我が家の場合ですが「学校に行かない暮らしもあっていいんじゃないか」の思いが重要な軸のひとつでもありました。その暮らしに名前が付けられるとしたら、それが「ホームスクール」あるいは「アンスクーリング」だったのです。それは、こどもたちのそれまでの暮らしぶりを学齢期になってもただ継続しているだけのことでした。

 あとになって気付くのですが、教育制度に乗っ取ったライフステージを中心にした暮らしはとても不自然に感じるようになりました。でもそれが世間では「あたりまえ」なのですよね。あたりまえがあたりまえじゃなくて、あたりまえでないことがあたりまえ…みたいな感覚がよくありました。

どうしてホームスクールを始めたのですか?

 最初に受ける質問はこんな言い方が多いかもしれません。
 「理由」を問われるわけでなく、「きっかけ」を問われるわけでなく、「動機」を明らかにするでもない。なのでいつも(なにをどう答えればいいのだろう?)と考えつつ、わたしはたいてい「きっかけ」について話していました。

 「どうして…?」と考えてみますと、まず”きっかけ”があって、それから、いちばん自分たちの気持ちに素直に従っていくとこうなった…感じです。単にそれ以外のことができなかった…というのもありますね。
 フリースクールやオルタナティブスクールを見学したりもしましたけど、「なんか違うんだよなぁ」の感覚で、結局はホームスクールに落ち着いたのでした。そんな経験も「やはりウチはホームスクールなのだな」と腹をくくるプロセスとして必要だったのだと思います。そして、なにかにつけ「そのように過ごす条件が揃っているからそうなるように導かれるのだ」と安心することができました。「ホームスクール暮らしで大丈夫」という安心感ですね。【根拠のない自信】と、多くのホームスクール家族が話すのですが、まさにその通りでした。

 

「ホームスクールをしている理由はなんですか?」と明確に問われたことは果たしてあったかしら…?

学校は(行っていないの)?
学校に行かせないの?

 このような疑問を投げられることはあったんだろうなって思います。
 この時、「ホームスクールだから。」と返事をするのはちぐはぐなことです。だって、こういうことですから。

学校に行かない ≒ ホームスクール
学校に行かせない ≒ ホームスクール
学校に行っていない ≒ ホームスクール


 子どもが常時、学校に通学していないことと、ホームスクールであることはまったく別のことです。これにはすこし説明が必要かもしれなくて、木蔭ではその説明を丁寧に展開してきました。「普通教育」や「自由教育」の概念を認識することから始まります。

 「学校は?」と反射的に口にする質問者の「なぜ?どうして?」には期待が込められています。求められている正答がすでに質問者の中で用意されている場合です。
 学校にこどもが行っていない言い訳を聞きたいわけです。その言い訳を問いただすことで、それが間違っていると諭すための手段となります。間違いを指摘するための材料を回答者本人から誘い出すことで、本人を納得させるという方法を取ります。親切心からそうするのですが、相手の都合を考えていませんし、自分都合の立場から発せられる質問ですから、こうした質問には真正面から生真面目に受け取る必要はないと考えています。
 「そうですね」ってはぐらかします。それで話はお終いです。

 このような誘導のある質問は「あなたには助けが必要だ」とわからせたい、とその手段としても用いられます。「助ける人・助けられる人」のいわゆる相互依存関係を無意識に作ろうとする人間関係の間でも生じます。これは厄介です。
 なぜなら互いにとって都合がよい関係におちいってしまうので、双方とも自立的ではありえません。そしてその関係は互いに都合が良い心地良い関係を継続することが目的になっていきます。すると永遠に問題と思っていることを真に解決することがありません。
 支援ポルノとよばれるものですね。商業的カウンセラーの行いでもあります。さらに言えば支配コントロール好きな(マニュピレーターの)隣人の話でもあります。根本的に、自己の利益のための行為なので、ターゲットとなる支配される側は常に自分の意見を見失い、善意の皮を被った支配欲に振り回されてしまうのです。他人の親切を毅然と断れないでいると、たまにこういう罠にはまるので気をつけていくうちに、最初から距離を取ることを覚えました。

 こんなこともありました。
 ホームスクールについて知識がある学校の先生にホームスクールを疑問視する保護者が質問してきました。そのたびに学校の先生は問題がないことを説明するのですが。その保護者の真意は「ホームスクールはいけないことだ」という自分の信念を肯定してほしいがために質問しています。ですから満足する回答が得られるまでこの保護者は同じ質問を繰り返します。
 先生は私に言っていました。「1週間前に説明したのに。また同じ質問をしてくるんですよ!」。これは質問者のなかで「答えが決まっている」パターンですよね。期待する答えが返ってくるまで納得することがないんです。だから質問しても本人の中で、なにも解消しないんです。発展もしません。そもそも質問する理由が違うところにあるんですから。
 さきほども言ったように、こういう場合はすでにセラピーの領域です。何度でも同じ質問と回答の繰り返しにつきあってあげる。それで安定した状態を保てるのであれば。なにも解決はしませんが、同じことが繰り返されることで安心を覚えるでしょう。否定も肯定もされない感じが、見捨てられていない感覚を覚えて安心できる。そんな関係性が保たれていることを認識することで「もめ事を起こしたいわけではないけれど不安を誰かにどうにかしてほしい」という心情に対処しているカタチはできあがるのです。

 なかには、本当に興味を持ち、関心を示して、質問をする方もいます。
 ”自分が知らないこと”を自覚していて、それを「知りたい」と純粋に思ってくださるのですね。そのような態度を示しているのに、こちらから誤解して遠ざけてしまうのはもったいないことです。過去の経験を誰にでも重ねて、「どうせ」と同じ判断を勝手にくだしてしまうのは損です。思い込みからの判断ではなく、事実を見極める態度を持っていたいと常々思っています。

 興味関心を示してくれる場合は、日本の法制度のことから順を追って説明しました。こどもの権利のことも話します。すると納得しない理由がありません。
 この質問が飛び出る根底にはやはり「疑問」「心配と不安」は少なからずあるのでしょう。知らないことだから、自分の知っている常識とあてはめて想定したとき、適当な答えが見つからないからです。でも自分と向き合う一歩があれば「真実を知りたい」気持ちが現実的な変化をもたらしますね。そこで「心配する必要がない」「不安になる理由がない」ことがわかれば、質問を投げかけた本人の中で、もう”問題”として認識されなくなり、疑問も不安も心配も感情面で解消されます。そうすれば、それは完結したことなので、ただの世間話なだけです。
 関連した情報があれば自然と提供してくれるなど有意義な情報につながったりもします。それは説明する家庭で”事実”や”現状”が伝わることで、”今、なにを必要としているか”がシンプルに伝わるからです。「困っている人」というぼんやりとしたイメージが払しょくされるからでしょう。

ホームスクールを続けている理由はなんですか?

 さて、このように問われることもこれまで無かったように思うのですが、このような質問をされたなら、私がつい思い浮かべてしまうシチュエーションがあります。

いつまでもホームスクールをしているわけにはいかないって、もちろん思ってますよね?

 そんな思惑です。
 根本的に日本の教育観のなかに「家庭でこどもは育つ」とか「家庭でこども学ぶ」ということが信じられていません。これは教育体制を整える歴史上の事実として「家庭でこどもに教育を与えることができない」という前提で学校および社会制度が展開されてきたからでしょう。教育を与える側にも受ける側の家庭にも地域社会にも、その思想は深く根づいています。
 それでなのだろうと思うのですが、やはり「ホームスクールのままでいること」には否定的な視線を感じることが少なくありません。

ホームスクール以外の選択肢を提案される
学校の学習をなにかしらの形で継続するよう提案される
フリースクールやオルタナティブスクールに「行けない」場合に、「最後の手段」としてホームスクールを検討しがち
「最悪、ホームスクールになりそう!」という発言はよく目にしました。

 残念に思う瞬間ですね。

ホームスクールは大変
親の負担がおおきい
本来、あってはならないこと
あるべき形に正す必要がある状態

 そんなイメージからホームスクールで過ごしている家庭には「支援が必要だ」というフレーズがつきまといました。そこが残念に感じる点でした。
 ホームスクールを楽しんでいるそのままの姿を見てほしいと強く思っていました。なにかの代わりや、なにかのつなぎというものではなく、ホームスクールというライフスタイルがぴったりと合う家庭もあるらしい(笑)と、そのまんま受け容れる空気を望んでいました。

ホームスクールを始める前に、始めるための正当な理由はいるのか?

 伝えたいのはここでしょうね。

 学校に子が通う理由を考える機会はあったでしょうか。
 それが日本の教育制度だから?
 考える必要もないほど”あたりまえ”だから?


 それが公教育だから?

 
 ホームスクールやオルタナティブ教育が、学校教育と並ぶ。
 その本質的な意味を今一度、問い直したいですね。

 ホームスクール、オルタナティブ教育を公教育と位置付ける未来を想像したとき、ホームスクールのライフスタイルも、オルタナティブスクールに通うことも、正当な理由が求められるでしょうか。
 「選択肢を選んだ」だけのことです。
 選ぶ理由に「成功するから」ということが果たしてあるでしょうか。そして一度選んだものが途中で軌道修正できないということがあるでしょうか。可能性が無限にあることを、初めから否定するものでもないでしょう。
「合う」スタイルはいろいろです。
 公務員養成のために「合う」教育体系もあるわけです。資格取得するような目的が明確に合って、備える必要のある技術と知識を身に着けるための教育体系もあるわけです。職業教育に近いものと考えてよいかもしれません。
 それとは一線を画して、広く興味関心を探求する教育を受けることができるというのは、とても贅沢なものだなとつくづく思います。時間と思考するという余暇から生まれるものですから。そんな時間を持てる社会を実現することこそが目指すところなのかもしれませんね。


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