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それぞれの母という人

高校時代の友人の母が亡くなったと、友人本人が連絡をくれた。すぐに友人とそっくりの、まあるくて黒目がちな温かな眼差しを持つ女性が思い出された。優しい人だった。娘の友人である私のことまで、どうして?と思うくらいにかわいがってくれた。生意気で大人に嫌われがちだった私だが、友人の母のかわいがりの前にはひれ伏して、家に遊びに行っては子犬のように甘えていた。

喫茶店を経営するママでもあり、遊びに行くといつも人に囲まれ、笑顔で手料理を客らに振舞っていた。私と友人はよく悪ふざけをして、誰かの物まねをしたり、友人宅の飼い犬にわざとちょっかいを出したりして吠えられ、そのたびにきゃあきゃあと笑い転げていた。今考えてもとんでもなくかしましいに違いないのだが、友人の母はそれを咎めたりしなかった。ニコニコと、友人と私の名を呼んでは美味しいものを食べさせてくれた。自分の母親と比べるというより、母とは別の個人なのだなとその時知ったような気がした。大人になった今は当たり前のことと理解できるが、自分のことしか見えていなかったその時分にはそのことが昨日と今日とでまったく違う世界線に来てしまったような感覚を覚えたものだった。母親とは一色ではなかったのだ。

友人に辛いところ知らせてくれた礼を伝え、お悔やみを伝えたつもりだったが、こんな時に長文をつづったところでなんの救いにもならないのではないか、むしろ故人を思って救われているのはこちらの方で、遺族にとってはなんら野暮な弔いにしかならないのではと思ったりもした。思い出こそ昨日のことのように出てくるが、友人の母とは物理的距離としても高校以来会っていない。20年はゆうに超える時が経過している。それなのに訃報を聞いたとたん、すこんと垂直に涙がこぼれたのは不思議だった。テレビドラマで、登場人物が親しい人間の訃報を聞いた途端泣き叫ぶ演技を見ては「嘘くさい」と偉そうに鼻白んでいたが、考えを改めた。驚きで涙が出、涙が頬を伝うその数秒で、自分の無力さを痛感するのだ。私はその時必要なものをたくさんもらったのに、返さなかった。それが例え他人であっても、一度でもその人に愛をみたなら、人はそう後悔するのかもしれない。

そして思う。友人の親の死を聞く年齢になったのだ。自分の親も、永遠に生きていてはくれないのだと時間が念を押してくる。それなのに心のどこかで大丈夫だろうと過信している。思わずにはいられない、それくらい私は弱い。金銭的な援助を受けなくなった今でも、どこかで守られている気がしている。時間は流れる。凄惨なスピードで思い出も美化されていく。昔はそれがとても忌々しくて、きれいな思い出になどしてやるものかと粘っていたが、それもどうでもよくなってきている。みるみる小さくなっていく親を目の前にしてそれでもその足に縋り付いていた。まだ手を放しきれてなど全くないが、がっしりつかんだ右手の小指一本くらいは、解放してあげなければならないのかもしれない。

連日の胃痛も考えてみれば母親ゆずりである。母もよく胃痛に顔をゆがめていた。寝込む母を見て恐怖を覚えたものだった。このまま死んでしまうのではないか。これは私に遺伝するのではないか。いつもスッと立つ母が丸くなって横たわらなければならないこの状況をどうして誰も止められないのか。幼いころの予見した恐怖はなんなく自分に降りかかるわけだが、まあ痛みは辛い。確かに辛いが、辛いところを見られる子どもが私にはいない分、母の方がよほど辛かっただろうとわかる。一番恐怖を与えたくない存在に、背を向けなければならず、大丈夫だと言って抱きしめられなかったことを。

友人は最後、床に臥す自分の母に「大好き、ありがとう」と伝えられたそうだ。大人になっても中2男子みたいな態度を取り続けてきちゃったけどね、と。わかる。素直になんてなれっこない。恨むし、疎ましいし、恥ずかしい。それほどにかけがえないなんて、母とはなんてやっかいなのだろう。
そして私はまた涙した。友人が最後に伝えらえた母への感謝は、そっくり私から友人への、そして自分の母への気持ちそのものだったから。

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