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思春期の終わりと言葉の獲得:『惡の華』(押見修造)

響く人には強く響く作品。
『惡の華』の好きなところを考えているうちに、主人公の春日に注目したらトラウマ・罪の克服と言葉の獲得の過程として捉えるに至った。
まだ読めていない人には魅力を伝え、読んだことがある人には作品や作品の主題の一つの捉え方を示すことで折り合いをつける手助けをすることができたら。
なお、トラウマ研究者の宮地尚子さんの書籍に影響を受けながらまとめている部分も多いですが、読者として魅力を感じたところをまとめています。また、ネタバレを含みます。


読書経歴 20230819

初めて読んだのは中学校の時地元の本屋での立ち読みだった。
漫画の立ち読みをしてもいい本屋だったためテスト期間などで早く帰れた日はずっと立ち読みしていた。『惡の華』は表紙から読んではいけない本と思え、恐る恐る、友達に出くわしても隠せるようにこそこそ読んでいた。そのころ高校生編(7巻以降)はまだ刊行されていなかった記憶がある。そのころ性的な趣が強い中学生編の露悪的な部分にひかれていた。
次に読んだのは大学生3年生の時ちょうどコロナ禍の最も制約の激しい時期だった。小説、漫画、アニメなどに本格的に触れ始めた時期でもあり、昔読んでいたが最後まで読み切れていない漫画を中古で買って読むことにはまっていた。9巻の春日から常磐への告白シーンをはじめて読んだ時私の中で特別な意味を持った。学部の終わりに引っ越しをする際も惡の華は売ったり処分することができず実家に郵送した。

それから実家に帰るたびに読み返していたが、今年のお盆で実家に帰って読み直した際、もっと傍においておきたいと感じ東京の家に持ってきた。

なお、ボードレールの悪の華は高校生と大学生の時に少し読んだだけで途中で断念している。それでも初めて読んだ時は頭をなぐられたような衝撃があった。春日と同じように理解できなさと理解できなさからくる崇拝のようなものがあったのかもしれない。

変態 20230820

惡の華は思春期というテーマのほかに、変態とは何か、いかにして変態であれるかというテーマを持っているように思う。
変態の狭義は、特異な性的思考や行動、非常識な行動や考えをさす。ほかに連想するものとしては、本音、性欲、解放、創作、詩、絵画など創作物がある。またそれ以外の変態には生物学的な意味で成長過程における形態や構造の変化もある。

変態の対義語は狭義としては正常、普通、一般といった言葉、ほかに連想するものは習慣、通念、世間、抑圧、理性といったものだろうか。他にも生物学の意味の変態の対義語としてchatgptでは非変態という言葉がでてきたが、不変、停滞、退屈といったものを連想する。

これらの言葉に向き合う注意点についてはAppendixでも触れる。

作品における変態の捉え方 20230820

作中では変態と変態を妨げるものがせめぎ合っている。

狭義の変態は社会的な見方として表れている。
クラスメイトの発言にふくまれる変態という言葉ははみ出たものを糾弾、抑圧するためのものとしてつかわれている。変態という言葉を春日は目として内面化し、目は町に生え、町そのものにもなっている。人に傷、汚れを負わせたときの罪悪感と変態を糾弾する目は増幅し合う関係にある。作中の黒い花として描かれるもの(この文章の中では悪の花と便宜的に呼ぶことにする)はこの罪悪感、罪を犯す行為にリンクして生まれる描写がある。
現実の人にも共通する部分も多いように思うが、作中の佐伯、仲村、春日、常磐のどれも多かれ少なかれ変態的なものへの志向性がある。自分自身の変態性が過度に抑圧された状態ではいられず溢れ出る。しかしそれぞれのキャラクターで変態性の抑圧のされ方、あらわれ方が異なり衝突する。

佐伯は周りからみての普通、らしさに強くとらわれている。変態的なものを普通という枠組みに入れ込む一方変態的なものに対してのあこがれを持つ。だから文学作品に強い熱をもっている春日、仲村と春日のつながり、仲村に理解できないながらも強く惹かれる。一方変態という言葉を否定する。性愛についても第二次性徴以降の自意識や社会通念によって歪められて成型された形以外をとることができない。

仲村は退屈にとらわれている。表面的なものがクソムシとして映り生活に差異や価値をもたらさない。クラスメイト、父親、祖母だけでなく町を区切る山もクソムシとして見えている。差異がないクソムシの中で仲村自身もクソムシに飲み込まれるところだった。社会的振る舞いを装わないもの、クソムシじゃないものとしてうつるもの、意味を持つ変態的なものを待望している。周りから見ると性的で過激にうつる言動が多いが祝祭的なものであり、第二次性徴以降の自意識や社会通念によって歪められて成型された形式的な性を強く嫌う。

春日は志向するものが極端である。
極化された理想をいだき志向するようになる。
あこがれるきっかけは父をきっかけとした読書経験によるものが大きい。
それぞれの極は崇高さで塗りつぶされたイデア・プラトニックさとあらゆるものをひん剥くような生生しい変態性のようなものとしてはじめの方はあらわれる。しかし、ボードレールの悪の華を特別に思っていることからも数々の春日の言動からも生々しい変態性と昇華こそを強く望む人として描かれる。
しかし、性との距離が近い閉鎖された田舎の中学生活、恵まれないスクールカースト、小説や詩を読むことによっても増幅される自意識の高さなどのフィルターを通し、その変態性は抑圧されプラトニックなものを志向する傾向が強くなる。さらにプラトニックさへの志向は性愛面は清らかで素朴な片思い、つまり、聖女っぽい振る舞いをする人(佐伯)の聖女化、聖女を慕う気持ちの神聖化として成型される。また性愛に限らず、サブカルチャー体験初期の人のメインカルチャーに対する優位性のようなものとして文学を解さない周りの人と精神的にも身体的にも距離を取る。ただ本質的には極である以上現れるプラトニック性・潔癖性の強さは変態性としても理解できる。

主要人物の関係性 20230820

中学生編

上記のような違いがある3人は衝突し血を流し合う。

仲村と春日の関係は概ね創作仲間に近い関係性をとる。
はじめはボードレールの悪の華を介して出会う。
春日は初めのほうこそ性的な視線を仲村に送る場面もあるが、仲村は初めから春日を性的には見ていない、または見ていたとしてもそれが二人の関係性の大事な部分を占めない。二人が望むのは形式的で表面的になりやすい第二次性徴以降の性ではない。中学生編の中ではじめは仲村から春日の方向で変態性を開放することが出来る相手として関係性が始まるが、次第に相互に影響し合い増幅されていく。特に春日から仲村に契約の持ち直しをはかる場面は2人の関係が双方向的になっていることがあらわれている。
普通と変態、そしてその間を漂うだけの空虚さを抱えることも殺すことも共有できる関係性に変化していき、中学生編の終わりである夏祭りを迎える。しかし、夏祭りでヤグラの上で心中する直前で仲村は春日をヤグラから落とし仲村は一人心中しようとする。11巻において春日が仲村に消えないでいてくれてよかったと告げているのと同じように、作中で言及されていないが仲村も春日に対して消えないでいてほしいとヤグラの上で感じていたのではないか。

春日と佐伯の関係はフロイト的な子と母の関係に近い感じがする。
といいながらフロイトは不勉強であるためフロイトの概念との詳しい関係性については説明が出来ない。春日にとっては佐伯はダブルバインド、つまり、矛盾したメッセージを強いる存在になる。春日にとって佐伯は付き合うということをしてみたくなる存在としても性的な視線をむける存在としても描かれる。一方、罪悪感を感じる相手でもあり、聖女化しているため佐伯の生々しさに向き合えない。また佐伯は一般的な恋愛概念、〈付き合う〉にとらわれているため春日と仲村さんの関係性を阻害する。春日にとって仲村との関係性を絶たれることは自分であれず呼吸できないことにも等しい。それは春日にとって変態性を解放できないからともいえるし、また仲村と築いてきた祝祭的行為を大事に思っているから、創作仲間である仲村の気持ちを無下にすることはとても痛いからだと思われる。したがって、春日は佐伯の前ではほとんど常に葛藤して描かれている。一度付き合ってみたりセックスをするが結ばれることはなく仲村との関係を選ぶ。

佐伯から見ての春日は憧れであり必要な存在になっていく。
佐伯は自分が知らないものを知っており、はじめて告白をしてきた春日に惹かれることになる。それ以外選択肢がとれないから普通の〈付き合い〉をはじめ、〈付き合う〉ということが意味することを春日の、佐伯自身の振る舞いに求める。佐伯が優等生的な生活をしてきたことが描かれており、その生活が外部評価に依存していて自信がない佐伯の振る舞いを表している可能性がある。理解できないことに触れた時に基本的には理解できる形に変換するほかなく、春日の変態的な行動のうち自身に向けられた性に関する部分を抽出して性愛として変換する。一方、理解できないながらもボードレールの悪の華を何度も読む、性的な変態性(狭義的な意味)についてはできる限り受け入れようとするなどの行動も見られる。
しかし、仲村と春日の変態的な行動に触れるにつれ、変態的な行動をとれること、また、変態的な行動を共有し合っている春日と仲村の関係性をうらやましく感じる気持ちに気づく。同時に、拒絶することも含め表面的な部分だけをみることに終始しなかった春日との関係の大切さを気づく。(その中には仲村との関係も間接的にも含まれている)しかし、やはり佐伯自身は仲村のように社会的に外れた行動をとることが出来ず、変態的でいることを自身が受け入れられるような希望も持つことが出来ない。その結果、春日との関係を築きなおしたい気持ち、仲村のように逸脱した行動をとれない身体、独占欲と内面的な自信のなさが混じり、自覚している容姿の優秀さという武器を使って春日の性欲に訴えて希望のない閉じられた町の中でやり直そうとする。容姿の優秀さを使うことは本来中身を見てほしい佐伯にとってはなおさら自分自身を傷つける行為でもある。これは古典的な女性性のようなものかもしれないが、動揺、傷つき、不幸を受けるとさらに自分自身にその不幸を求める心理としても解釈できるかもしれない。しかし、セックス後に春日が仲村を選んだことによって良くも悪くも春日と過ごすという望みは絶たれる。
高校生編では春日に近い人を好きになったり恵まれた容姿を利用する格好を着るなど、中学生編の出来事と不幸を再体験していくような描写があるが、成人した後は春日に似ていない存在と結婚生活を送っている描写もある。しかし、佐伯が高校生編以降どのように解放されていったのかについては本作の中では描写があまりない。ほかの押見修造さんの作品の中では血の轍で描かれる母静子、おかえりアリスの三谷結衣が参考になるのかもしれない。

高校生編

常磐は容姿が良くまたある程度器用にふるまうことが出来、スクールカーストが上の方にいて背が高く見た目の良い一つ上の彼氏がいる。小説、漫画、映画といった芸術に触れることが好きだが、本を好きなことを家族以外彼氏や同じカーストの集まりにも共有することができない。周りの人の読書経験のなさと表面的な言動に対しあきらめながらも目につき、同様にうすっぺらく振る舞う自分自身に対しても空っぽさを感じ、苦しんでいる。

常磐と春日は創作仲間であり、かつ、性愛のパートナーとしての関係性を築いていく。常磐と春日は小説を介して影響し合う。常磐と春日は仲村と春日と同様にボードレールの悪の華を介して出会い、その後は常磐の書く小説と一緒に変化していく。
はじめは読んできた小説を教え合う関係としてはじまり、それから常磐の小説のプロット、文章の進捗を共有し合うことを通じて、春日と常磐はこれまで周りに対して閉じていた心のある側面をお互いの目を見るように開いていく。常磐は人に見せられなかった面を共有し合えることの喜び、小説執筆の意欲を得ていき、春日は(自身の読書がもととなった)文学との再開、過去の罪をもう一度捉えなおしていく。

なお、常磐は仲村と空っぽさを感じている時と楽しんでいる時の表情、声、目が似ている。一方、春日と影響し合い変態性が表出する時、仲村は祝祭的振る舞いとして、常磐は小説として表れる。常磐と春日は出会い始めて早い段階で空っぽさを共有し合っている。常磐の小説の題材に幽霊があるが、常磐と春日の互いが互いを幽霊のようにこの世を漂っている存在であることに気づく過程が含まれている。春日は自分自身と常磐の幽霊としての側面を乗り越えることを決意し、常磐の壁に向き合い壊す。(第9巻表紙の絵参考)その後、常磐の小説が終わりを迎えたタイミングで、春日が常磐により向き合うために中学生編の過去、罪を話す。以前に春日が死んだ目をしていたり幽霊であるとつぶやく時と同様に罪、トラウマを語り終わった春日を常磐はよく見ている。常磐は仲村と春日が出会い直すことを、春日が過去と仲村と向き合うことを支えようとする。創作仲間としての在り方が性愛的な形へとどうやって変化したかはあまり描かれていないが、お互いがお互いを開示していったことによる信頼によるものだろうか。

※補足:春日にとって常磐
高校生編の春日は過去を追うとともに切り捨てようとする存在として意味がなく生きる存在として始まる。過去を切り捨てるためにも小説や詩は全て捨てた。しかし、常磐によって紹介、執筆される本によって、本との、過去との、罪との出会い直しをする。そして常磐の書く小説に生きるきっかけを見出す。常磐との関係性の中で表面的以上に他者と関わることだけでなく、中学生のときに仲村とはやりきれなかった、幽霊性、退屈さ、空っぽさを常磐と乗り越え、現実を取り戻すことが少しずつできるようになっている。常磐のかかわりが与える安心感と常磐と向き合うことに伴う覚悟によって、過去の罪と向き合うだけでなく現実との関わりの中で償いなおすことができるようになっている。時間が解決した部分も大きいだろうが、大学生以降どこかにいる幽霊、仲村のような人を想像し、小説を執筆するようになるのも、身近で先に執筆している常磐がいること、安心感をもって過去に向きなおせるようになったことが関係しているように思う。

高校生編の最後 20230823

11巻のなかで仲村と春日は出会い直す。
高校に行っていないのか仲村は母親と同居して母親の営む食堂で働いている。母親いわく最近安定している状態の仲村は常磐を介し春日と砂浜と話すことになる。
どう過ごしていたのか、父親との関係はどうか、どうしてヤグラから落として一緒に心中してくれなかったのかなどの春日の質問に対し、仲村はほぐらかし、上を見て白目になるなどまともに答えない。その時の目は彼氏の話をするときの常磐の顔、悪の花と重なる。常磐が過去の自分と似ているといっているように、かろうじて社会生活を送れてはいるものの社会の中で自分を出すことができない存在として描かれている。また常磐と一緒にきた春日に対して、昔とは異なり普通の生活を送れている人として距離を感じているとも取れる。仲村が春日の右手をさわったり嗅いだりするシーンもこの中にあるが、右手は罪を隠し握りつぶし洗い流しそれでも跡が残った象徴的な部位であるため、春日が仲村のいない間に中学生編の出来事、罪とどう向き合ってきたかを仲村が感じ取る場面としても解釈することが出来る。
そのあと、春日は仲村を次に常磐を巻き込みながら海の中でもみくちゃになる場面があるが、仲村と春日が中学生の時に教室でやった騒動とも近く、おかえりアリスの第4巻のお風呂場のシーンともとても近く、他の作者の作品も含めると村田沙耶香さんの『地球星人』の小学生時代の奈月と由宇の交わりど近いし、これはいっしょにしてもいいかわからないが、『NARUTO -ナルト-』の最終話のナルトとサスケの最終決戦とも近い。その後、疲れ切った身体で仲村は春日をふつうにんげんとして認めることになる。
ここで惡の華は終わり悪の華がはじまる。
春日と仲村が現実にいるお互いを大事な存在として確かめることで受け入れ、思春期が、罪が、トラウマが一区切りついたということだろうか。

文学、創作との関わりと思春期の終わり 20230821

惡の華では文学、創作が大きな役割を持つ。
中学生編では小説や詩をたくさん読む春日がボードレースの悪の華がきっかけで仲村と出会い、ともに行う祝祭的な表現を現実の中で行うことによって罪を背負う。この中で文学は社会との衝突ないし罪のきっかけとしての側面が大きい。
高校生編では罪のある過去を切り離すために3年間本を読まずにいた春日が常磐と出会うことによって文学と出会い直し、常磐の執筆する小説をともに身近な人と社会とのかかわりを再構成し罪を償う。人と出会い直すきっかけとして文学と小説の執筆はある。
そして最後にはどこかいる仲村のような人の幽霊を殺すために春日の体験は小説惡の華として再構成される。
春日が常磐にした告白、仲村と春日(最後の場面では常磐さんも含め)の間でおきる第二次性徴未満のセックスのようなものの身体的体験を想起するものも描いたこの作品は、つながれなさとつながることの両方を描いており、常磐や春日の書く小説と同様に人と人をつなぐきっかけになりうる。

思春期の終わりになればと押見さんは書いているが、この作品のなかで思春期の終わりは現実における向こう側の消滅として解釈できる。向こう側に向かうための第二次性徴未満のセックス、つまり、形式にとらわれないミメーシス、変態性の昇華の経験が踏まえながら、(中学生編)向こう側を目的としないミメーシス、周りとの衝突が大きくない昇華法の獲得、強くなる表面的ではない他者とのつながりが向こう側を消していく。(高校生編)

また、思春期の終わりには言葉とのかかわりの変化、言葉の獲得が強く影響しているものとしても考えることができる。上で述べたようにの昇華としての言葉の獲得は身体性、つながりの獲得に相互に影響し合っている。春日にとって変態という言葉は恥ずかしいものから仲村との祝祭によって気持ちがいいものとして変化しているし、変態的な体験自体も読む物語から書く物語として変化している。

小説、特に純文学の一つの役割はこれまでの人が表現できていない体験に言葉を与えることである。春日は常磐の影響を受けながら自分の体験を言葉として表現できるようになる。トラウマの研究者宮地尚子さんの『環状島=トラウマの地政学』ではトラウマ体験と発言力の関係について環状島というモデルを使って語られている。強いトラウマ体験は発言力を落とすこと、トラウマから立ち直る過程には言葉の獲得という側面があることが書かれている。トラウマ体験には被害だけでなく加害による罪の自覚も含まれる。春日と悪の花との関わりは言葉の獲得の過程になっている。表現メディアの違いに注目すれば、春日と仲村が中学生の時にやっていた絵画的な表現よりも文章特に散文による表現の方が、より表現者の中で言語化が層状に行われる必要があるように思われるため、中学生編で絵画的祝祭的な表現、高校生編以降で小説という表現を獲得していく過程は自然にも感じる。
そういえば、11巻に春日にもう一度咲いた惡の花の花びらの一枚一枚は、佐伯などを含めた現実の人の人生という物語、春日が書く小説惡の華の物語につながっている。漫画惡の華はトラウマの昇華と、言葉、物語が連関ししかもリアリティをもって漫画という形式で表現されている。

私にとっての惡の華 20230822

年を取り経験が増え価値観が変化するとともに、惡の華に対する感じ方。惡の華の自分の人生における立ち位置が変わってきた。中学生の時はゾクゾクして悪徳に誘われるような漫画として、大学生の時は春日に感情移入し仲村や常磐のような人の出会いを求めるような漫画としてあった。
しかしここ数年は作中の文学の扱いに焦点があたるようになった。
読者としての春日、常磐、そして理解できない周りという対立構造の理解が次第に生まれた。人と人の分裂生成を加速させるものとしての文学、文学に触れているものと触れていないものの精神構造と経験にどういう違いがありわかりあえなさを作っているのかについて気になっていた。
加えて、最近では書き手としての春日、常磐に注目するようになった。
次第に社会の中に身体を、仲間を、言葉を獲得する過程が、文章を書く過程として表現されている部分、そして、春日に見られるトラウマ(罪)と芸術との関係性についてだ。
作中に表現されている、悪の花(罪、トラウマ、芸術の芽)は生まれる、悪の花は上(空想)を向いたまま咲く、悪の花と向き合う、悪の花をにぎりつぶす、悪の花の跡に向き直る、悪の花が霧散する、悪の花がもう一度咲くという過程はトラウマ(と罪)と芸術の関係性を想起する。
もちろん現実的には悪の花は握りつぶせないかもしれない、悪の花と目を合わせることはできないかもしれない、悪の花が霧散することができるような身体的なつながりはできないかもしれない、悪の花をもう一度咲かせるだけの発言力を取り戻すことはできないかもしれない。
この作品の悪徳のにおいは中学生の頃の私のように露悪的なものとしてうつり清潔な手をした人を遠ざけるものでもあるが、アルコール漬けの脳でみる朝日のような、夜遅くまで作業や仕事をしていた後のビル街で聞く『Fuckin' Car』(ゆるふわギャング)のような、歌舞伎町にいるスーパーラットのような、どうしようもない美しさをもって汚い手を伸ばしてくる。(作中では夕焼けとして表現されているように思う。)そして悪徳は表現へと誘う。

太宰治の『道化の華』の劇中劇の中の道化たちは自己保身をする、そのため、道化師たちは相手を笑わせる。そこには優しさもある。となりにいて背中をさする、そんな優しさがある。
しかしウエルベックの『闘争領域の拡大』で描かれているような現代は闘争領域があらゆる領域へと拡大し、評価がなされる領域が拡大し、絶対的貧困としてつながれないものとして生まれてしまう社会だ。世田谷ラブストーリーや世田谷カフェがせいぜいでありそれですら特権性を持つ。友達は、仲間はなかなかできない。いいねをくれるということは仲間を意味しない。脳内に生まれた快感物質のカクテルパーティがイケていたということ。それに絶対的貧困にあるものはいいねすらもらえない。道端が道端であり井戸端にすらなっていない。もはや隣に人が座ることはない。犬も飼えない。それ以上の分析をゆるさない宗教性の高い麻酔薬としての占いや推しや精神分析や○○イズムの残り滓を私たちを求める。
もはや惡の華、道化の華のような社会ですらとっくのまえにないのかもしれない。
ただそういった閉塞感に気づいてしまった今だからこそ空想にディストピアに構造に占いに悲劇に喜劇に終始せずに目を見ることを促す作品には強い価値を感じる。
この作品では空想と現実と原初的なセックスが接近し、書くという創作活動に紐づいている。この作品は創作することと社会とのつながりをあきらめないでいることの両方を促す。
この感想は私にとって文学というものの立ち位置が変化していることも関係しているのかもしれない。読者としての文学の持つ意味が深くなるとともに、少しずつ書き手としての文学と向き合うことが増えてきている。

補足:言葉の力 20230822

この作品のストーリーは上で述べたように表現、特に書くことが持つ力を感じさせるものであり、言葉の獲得の物語として捉えることが出来る。
ここで補足しておきたいのは、良くも悪くも言葉は強すぎるということ。
そもそもこの社会での力の強さは言葉の力に相当する。私たちが魚や植物や動物を食べたり実験対象として扱っていいことにしているのは私たちの言語世界の中に彼/彼女らの言葉がなく同意を得ないで済ませているからである。また有名大学に行けてエリート的な振る舞いをすることを許されるのは言語的な処理ができるからで処理の成果物に価値があるとみなす人が多いからだ。またその価値観を誘導する表現を作るのにも高い言語的処理を介する場面は多いという多次元的に言語処理優位な構造がある。
作中で描かれる空っぽさは最初は個性のなさとして次につながりのなさを想起しやすいが、他者とのつながりを持つための言葉の不足としても捉えることが出来る。強い変態性、差異をもったものが、言語的な世界の中でつながりをもつためには、多量の言葉と多量の言葉を弁証し特権性を乗り越えることができる新たな言葉の創出が必要とされる。これはそのままマイノリティの研究の歴史に相当すると考えている。
つまり、空っぽさは言葉を求める。
しかし、本当に言葉が必要なものこそ必要な言葉を扱うことができないことが多い。
たとえば、障害当事者が社会のなかでつながりを感じるために当事者とその周りでの言葉の見直しが必要になる場合がある。例えば西洋的な意志概念がそぐわない当事者の立場に立ち、中動態の学問的再発見による責任と意志の見直しが要請される学問的な動きがあることはここに含まれる。また、本当につながりが必要な人ほど発言力が低くなるというのは宮地尚子さんの書籍でなんども説明されている。言葉を扱えない人の隣にいるなんとか言葉を扱える人が、言葉を扱えない人の身体性に添う言葉を作り、力を持たせて異なる身体をつなぐ過程が必要になる。たとえば作中では常磐が春日の(この関係は双方向的でもあるが)、春日が仲村(のような人)の、身体性にあう表現、言葉を作っていく過程が描かれている。
ここで何が言いたいかというと作中の常磐も春日も小説を書くようになったことは恵まれているからともいえるということだ。
家に本があった。早い時期に文学に触れた。大学へ行けた。もちろん好き好んだわけでもない。だから苦しんだこともこの作品のポイントだ。生まれ方は選べない。実験環境では無い社会の生態系的構造は多くの面で分析不可能な因果律を持つ。
民主主義である限り言葉に力があるというメッセージを決して言葉を持てない故の不幸を助長するものに変換してはならない。なぜ人を殺してはいけないのかという問いと同様にそのことに気付くのには言葉と何より身体的同期の経験が必要である。不平等な社会では私たちは常に加害者で被害者で傍観者でありなめらかに交換できない。

なお、押見修造さんが現在連載している『血の轍』も前後半がある展開をとっており悪の華とつながる部分が多いながらも、もっと救いがなくもっと遅く言葉を獲得していく過程が描かれている。わかりやすい思春期という括りではないが、こちらの方が実際の人の生活により近いかもしれない。作中で描かれきれていないように感じるのは佐伯のような普通に囚われた人であり、上述したように血の轍、おかえりアリスが参考になるかもしれない。

Appendix:合う音楽 20230823

惡の華に合う曲だったので付け足しておきたい。
特に春日と常磐の関係に関連して、yeuleさん、最近ずっと聞いてる。

春日と仲村はバンドメンバーの脱退としての側面があるので

Appendix2:言葉遣いの注意 20230823

今回作中の表現を使って、変態、性欲という言葉をそのまま受け取り、この文章を書いたがそのうちこれらの言葉は解体される気がする。
これらの言葉を使って考えることは楽しいが本質的に持つものと印象とかが乖離しているし偏りがあるように感じる。
変態は中心値から離れたものをマジョリティ側がつける家父長制のようなものを感じるし、性欲(まだフロイトのリビドーよりはましな気がするが)は理解できない何かに対し臭いものとして蓋をして、ある人はロマンをある人は絶望を感じながら漏れるニオイを嗅ぐ、そのような印象ばかりが浮かぶ。何より性欲はブラックボックス(あるシステムに対する名称)を作っているだけの面も強く、システムの中について思考することが阻害される側面も強いように感じる。
ただ現状、これらの言葉は一般的にも普及しているという意味で人に伝達する際のとっかかりとして使えるし、伝達可能という意味で間違っていたとしてもなんらかの効果をもたらす。加えて、ほかに表現手法が浮かばないため使うほかなかった。意志や責任という言葉に対しても同様に感じる。そのうちこれらの言葉は辞書から消えてしまう、今の意味をぽかんと忘れてしまう、そんな予感がある。サッカー練習終わりの整地。偏りはいつのまにか均され少し違う偏りが生まれる。多様性の社会への志向は、いままで海に沈んでおりこれまで人間扱いされてこなかった他者を想像し存在させ、言葉が社会全体に生む差異を捉え直し新たな形の差異に置き換える過程である。円を回っているようでゆるやかな螺旋を描き変わっていく。言葉の生命らしさについて、そのようなイメージが浮かぶ。
人間の精神的な部分にラベルをみだらにつけて、それの促進、抑圧という風に考えることは研究促進概念を生み、間違った体系を生み出すという側面があるとベイトソンが『精神の生態学へ』の中で述べている。彼の哲学が現代的にどのように受容されているかまだつかみきれていないが、相補的関係、対照的関係といった、関係の変遷に注目して考えることも一つの見方としていいのかもしれない。
のちに誤ったわかってしまうような言葉がもつ働きに関連して、説明がしやすい効果があるものと間違っていそうなのに効果があるものの違いについて気になっている。誰かおすすめの書籍などあれば教えていただきたい。(理学に対する工学、原理的な正しさの持つ薬の効果に対するプラシーボ効果、医学に対する呪術や物語など)

Appendix3:春日の志向について 20230825

中学生編初めの春日の志向する極をプラトニックなものと生々しいものとしたが、これらは芸術論の歴史の中ですでに言葉が与えられているものであることが予想される。おそらくどちらも主観的なものとしてあつかわれているだろう。このことから、また本文で述べたことから、向こう側の存在とは自己と他者、主観と客観、身体と精神といったものが強く分離していることを指し、消滅とはそれらの分離が弱くなった、繋がりをもった、認識論が変わったということを指していると直感する。ただ論拠がまだ浮かばないので根拠については今後の課題とする。
フロイト、ボードレール、プラトン、三島由紀夫あたりは解釈に大きく関わってきそうで、平野啓一郎さんが精通していそうなため、評論を探して当たりたい。



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