見出し画像

僕は「人生イージーモードだよね」って言われるけど、それは心配性すぎるだけだと思っている

僕は「人生イージーモードだよね」と割と言われるのです。

端から見ると、必死に頑張っているようにも見えなければ、苦労しているようにも見えないからなんだろうなとは思っています。

そう見えないだけでなく、なんやかんやそれなりに他人よりうまくこなしているように見えるから、そういう感想を抱かれることが多いんだとは思います。

でもそれって、取り繕っているとか影では必死に努力して表に出さないようにしているとかでは全然ありません。単に自分でも必死に頑張っていると主観的に認識していないだけなんだろうなと思っています。

高校受験って「蛍雪の功」だと思ってた

中学生のある日、たぶん塾の国語のときだった気もしますが、「蛍雪の功」という言葉を初めて知りました。

電気もないご時世に本を読みたいがあかりを灯すお金もない貧しい人がホタルを集めてきてその光で勉強に励んだというお話を聞いて、頭の中に鮮明にイメージが湧いたのを覚えています。

当時、言っていた塾の洗脳的なニュアンスもあるかと思いますが、高校に受かるためにみんなそれくらいの心持ちで勉強しているものかと思っていました。

もちろんこの時代では、よほどのことがない限り光がなく勉強に困るということはないでしょうが、それくらい勉強するぞ!という姿勢で臨むものと当時思っていたのです。

なので毎日18時に部活が終わり22時まで塾で勉強し、帰ってご飯をすぐさま過去問とかを26時くらいまでやるという生活を繰り返していました。当時これが大変だったとかは微塵も思っておらず、まぁそういうものだと思っていたし、それくらいやらないと受からないだろうなと至極当然のものとしてやっていました。

でも現実を振り返れば、そんな人ほとんどいませんよね。僕は大学受験をしていないので知りませんが、大学受験ですらそんな感覚で勉強を続けられる人は多くないんじゃないでしょうか。まぁそれは第一志望受かるよね、という感じです。

要するに、こと高校受験に関して言えば、「当たり前のことを当たり前にやっていたら受かった」という自己認識しかないしそれに対して苦労を覚えた記憶もありません。机に向かうのが億劫とか、ゲームやりたい衝動をなんとか我慢して、その上でいい成績取らなきゃ...みたいな心理状態の人から見れば、飄々とやってのけるのだから、「人生イージーモード」に見えるのでしょう。

心配性だから当たり前の水準が高い

「蛍雪の功」が当たり前と思っていたら実は全然当たり前じゃなかった、というような経験はこれが最後ではなく、高校に行くとき、大学に行くとき、就職するとき、転職するとき、各ライフステージの変化の際に毎回経験している感じがします。

どういうことかというと、大学に行ったらこれくらいのことができるようになるとか、社会人としてはこれくらいできないと恥ずかしい、みたいな感覚が僕には常に付きまとっているのです。

僕は何においても一番にはなりたいとは思わないのですが、平均とか中央値よりよくできない(しかもできるようになりたい/なるべきと判断したものにおいて)のはプライドが許さない性格みたいで、そのためには自然と努力してしまうようです。

なので自分がまだ平均よりできてないというと感じている間は心理的には多少辛いです。その想定した平均に達するまでは無限に努力するしなんとかするのですが、それは自分が劣っているというか普通のことができていないだけというカウントなので泣き言とかは別に思いません。ただすみません、という感じになるだけです。

ですが、この平均というのが先程の「蛍雪の功」なので、どこかのタイミングで気付くんですよね。平均が平均じゃないと。

そんな雰囲気を察した途端、「なんだー」という心の声とともにいつも不思議な気持ちになるのです。「80点取らなきゃ赤点だぞ!」って言われてたのに80点をなんとか取ったあとに「普通に60点までが赤点だよ」と後出しで言われるような、怒りと失望に似た変な感情を。

そんな先生がいるなら先生に対して感情をぶつければいいんでしょうけど、これを自分で自分に対して毎回やるのだからなんとも言えません。まぁ当たり前と思っていたハードルをなんとか超えてみれば、毎回それなりの水準なのである種ラッキーとは自分で思っています。「なんだー」と思っている瞬間に出くわすと、他人は僕を「イージーモード」と呼ぶでしょう。

(イージーモードでラッキーと思うと同時に、他人に対して「〇〇なのになんでそんなこともできないんだよ」という負の感情を抱くこともあります。こちとら当たり前と思ってきたのに。)

当たり前をハックする

僕はたまたま当たり前をハックしていたから「人生イージーモード」だったんだろうなと思っています。そしてそれはただ心配性だったからだと思っています。

でも、これが意識的にできたらとても便利だろうなとも思います。当たり前とは知覚できる範囲における平均のようなものなので、知覚できる範囲の水準そのものをあげるのが手っ取り早いんだろうなと思います。

下を見てもキリはないし自分の望む環境に身をおくのが「人生イージーモード」の鉄則だと思うし、いい環境を直感的なのかこれまで選べてきたのはかなり大きいと思っています。

精神論で努力するのは結構疲弊するし僕にはできません。知覚できる範囲の平均を操作するためによしなに環境をずらしていくのが、僕の処世術であり、「人生イージーモード」と言われる所以なんだろうなとふと思ったのでした。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
ありがとうございます〜!
5
春から大学院生(政治学)/雑多な本を読みます/IT業界5年目(現在ウェブ開発)