【地元旅せんまや】路上駐車の仕方に日本人の心を感じる
年末年始にテレビに映る神社仏閣を見ながら、ふと数年前の地元夏祭りでの出来事を思い出した。
地元千厩の夏祭りは、千厩町内の各地域から山車や踊り手たちが出され、商店街があるメインストリートを踊りながら進むパレード型のお祭り。
私の子供時代には、もっと賑わって見えた。
今は子供も夜店も少なくなってしまったが、それでも当日は町内中から人が集まる。
その年も、まだ祭りが始まったばかりの時間帯だったが、路上には駐車場からあふれた車が果てしなく並んで停まっていた。
職場から車で自宅へ帰る途中だった私は、路駐の長い列を眺めながら、その脇をゆっくりと進む。
そのうちに、ちょうど車1台分が入りそうな空きが、前方に見えた。ぎっしりと車が並ぶ中、そこだけぽっかりと空いている。
なぜそこだけ空いているんだろう。いい場所だから、すぐに誰か停めそうなものなのに。それともさっきまで車があったけど、用事があって途中で帰っちゃったのかな。
想像しながら進み、その空き場所の真横まで来たとき、
「あー……なるほど」
なぜ誰もそこに車を停めないのか、理由がわかった。
道路からほんの少し引っ込んだところに、小さな赤い鳥居があり、そのすぐ後ろに神様を祭る小さな祠があったのだ。
ちなみにこの辺では「神様」と言うとき、標準語のようには言わない。「さ」が上がって、
――――――――――――
さ
か み ま
――――――――――――
と言う。
「神」とか標準語で「神様」と言われるとピンとこないが、訛って「かみさま」と言うと、途端に親近感が湧く。
みんなその鳥居や祠を見て、「かみさま」を感じたのだろう。感じたと言ってもそんな大げさな意味ではなく。子供の頃から慣れ親しんだ「かみさま」に、なんとなく、敬意とか畏れといったものを抱いているのだ。
その「なんとなく」が、大切だと思う。
その「なんとなく」という感覚が、いざというとき行動に表れる。
「だから誰も停めなかったのか」
なんかいいものを見た。
ほっこりして、嬉しくなる。
もうわずかに通りすぎてしまったが、私も敬意を示し、「かみさま」の方向へ意識を向けて、車の中でぺこりと頭を下げた。
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