天の祝福
イギリスの人気番組『ブリティッシュ・ベイクオフ』。アマチュアのベイキングコンテストで、イギリスでは社会現象にもなったとか。私も大好きで、シーズン7まで毎回録画し、何度も繰り返し見た。
(『Dlife』はとても良いテレビチャンネルだったのでできれば復活してほしい)
どのシーズンもファイナルは特に好きで、優勝者の発表は私も固唾をのんで見守り、最後は拍手で称えながら涙したものだった。
最近Eテレで再放送されたシーズン1のファイナルは、なぜかとても、私の心に刺さった。
優勝者発表のときに流れていた曲が良かった。
エドが涙したときの表情も良かった。
そして――エンディングでシーズン1の参加者たちのその後の活躍が順番に紹介され、最後に現れた言葉に、また心を動かされた。
エドは優勝の2日後に銀行を退職
プロのベイカーとして一歩を踏み出した
コンテストに参加して、何週もかけて全力を尽くし、コンテスト後には人生が変わっている。いや、変えている。
この番組は何度も見ているはずなのに。
優勝者の発表も各シーズン見ているはずなのに。
なぜかシーズン1のエドには、釘付けになった。
このときの私は、エドとまったく逆の人生を送っていた。
かつて全力で向き合い続けた、小説を書くこと。だけど約2年間、私の心は、スッパリと小説から離れていた。
*
「あなた最近迷走しているように見えるんだが」
姉に言われて気づく。――たしかに。苦手なFacebookにわざわざ再挑戦し、来る者拒まずでどこまでやれるかを試したり。ここには書いていないが、他にもいろいろと活動案を考えてみたものの、どれも私らしくない内容だった。
しかも一時期mixiにもグラついている。
このとき私は、たまたまmixiアカウントを持っていた。発信のためではなく、読みたいものがあり、ただそれだけのために適当な名前で取得したにすぎない。
だが迷走中の私は、「クローズ型で、苦手なチャット形式ではなくメールタイプで、実名じゃなくてもいけそうな感じ。そしてコミュニティーもあるし、昔なつかしの掲示板型。もしかしてmixiは、私に合っているのでは」と思い始める。
そうしたら読み専アカウントを「高橋和珪」で整え、しっかりと発信を始めたらいいのでは、と。
この頃の私はバグっていた。
冷静に考えれば、mixiだって私に向いていないとわかるものなのに。過去に利用していたものの、結局返信を書くことに悩みすぎるからと退会した。
姉の一声で自分がバグっていると自覚すると、そこからは速かった。スルスルともつれた糸がほどけ、心の片隅にかろうじて存在していた「いいかげんフラフラするな」と戒める自分が、だんだんと大きくなってゆく。
そしてある朝私は、まだ眠りの中にいながら、読み専mixiアカウントをどうするか考え、「mixiも結局はコメント対応に時間を割くはめになるからやってはダメだ!」と、はっきり結論が出て目が覚めた。
忘れないように、ブレないようにと手帳へ書き留める。――気持ちがとても、スッキリしていた。
そのあと愛犬と朝の散歩をしていたら、ふと見た空に、彩雲が出ていた。
*
私のバグはどんどん修正されていった。
その日、朝ごはんの片づけをしながら、また1つ結論が出る。
「――小説書いてないからバグったんだわ」
やってみたいと思ったことは、私がやるのではなく、私の小説の登場人物たちがやるのが良い。性に合わないことを自分でやろうとするからバグるのだ。
こんなことは、ちゃんとわかっていたことなのに。わかっていたから、以前は小説にまっすぐ情熱をそそいでいたのに。
RIKON、父の他界と続き、実家での暮らしを大切にしているうちに、小説に関する部分だけ、私の中からなぜかスポッと抜け落ちた。
読む気も書く気も起きない。
心が、良くも悪くも凪状態。
「書けなくてもがく」ではなく、本当に、小説に関することだけが音もなく欠落した。
「苦しい」も「悔しい」も「焦り」もない。
ただ淡々と、「ああ、ステージがかわるんだな」と理解した。
こんな調子で2年も小説から離れていたからバグる。
そうだ小説を書こう。
ようやく、そういう気が起きた。
いや、本当は少し前から小説のことを思い出し始めていた。きっと、エドの影響が大きい。本気で何かに打ち込むことは素晴らしい。魂が輝くようで、こちらまで感動する。
(ここ数日はサッカーW杯で感動をもらった)
TOTSUGISAKIの夢を見ることも減った。
父の喪も明けた。
また、書いてみよう。
書きたいことも出てきた。
まだまとめられる段階ではないけども。
書きたい
書きたい
思うがまま地図を描き、宝石のような言葉を散りばめる。そうやってしばし紙とペンで戯れたのち、ピアノを弾くように書き始める。
やがて意識は、深海をたゆたう。
好きなことを好きなだけ書き連ねたあとは、整えて、研ぎ澄ませる。なんて書くのが下手なんだと苦しみながらも、蛇足を見つけて削ぎ落す快感はたまらない。
ついに書き上げたというときは、どこまでも明るく突き抜ける歓喜とともに、もう推敲できないのかと寂しくも思う。
推敲は好きだった。
別世界の友だちのもとへ遊びに行くようで。
あの感覚に、どっぷりと、また浸りたい。
――午後、草燃やしをしていたら、時雨が通り過ぎ、虹が出た。
朝は彩雲。午後は虹。
天が祝福していると、受け取ってもいいだろうか。
*
後日、なんとなく牡牛座の本を開いてみる。
大きく心境の変化が起こったから、もしかしたら占星術的に何かの区切りと連動しているのではないかと思って。
そして気づく。
私が小説をまた書こうと思い、彩雲や虹が現れたこの日――11月8日は、そういえば皆既月食と天王星食が起こった日だったと。