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短編小説 「白に、崩れる」

 それは突然やってきた。十九歳の春だ。僕は浪人生活をしていた。
 僕の運転する車が、橋に差し掛かった時だった。
 駅に向かうため、国道を右折すると、西日が正面から射して、視界を奪われた。
 慌ててサンバイザーを下げて視界を確保した瞬間、車の底が抜けた感覚に襲われ、深甚な恐怖が体中に満ちたのだった。
 一瞬、何が起きたのか分からなかった。ただ、それは恐怖としかいいようのない感覚だった。
 胸腔で大きく膨れた風船が爆発したような錯覚と言えば良いか。肺が突然機能不全に陥ったのかとも思った。呼吸が出来ない、死ぬ、死ぬ、息が吸えない、と思った。
 窓の外には深々と緑色に染まった一級河川が見えた。
 窓を開けると、空気の流れか、水の流れか判然としない轟音が、耳に飛び込んで来て、聴覚を奪われた。目だけが頼りだと悟り、遠くの景色に目を転じようとして、河川を形作るむき出しの岩肌に視線が遮られた。 
 自然の偉容そのままに、ゴツゴツと聳え立つ岩の壁がとてつもなく無慈悲で、恐ろしいものに見えた。もうだめだ。死ぬ。そう思った。死が向こうからやって来たのだ。
 口も喉もカラカラに乾いていた。息を吸っても吸っても胸が苦しくなるばかりで、いっこうに楽にならない。呼吸が出来ないことに気づいたら一層恐怖が募った。心臓の鼓動が、耳の中で爆音で響く。とにかく声を出してみようともしたが、何も言葉が見つからなかった。
 身体中から汗が出た。ガタガタと震えているくせに、寒いのか暑いのか分からなかった。震えは脚にも及んだ。震えを抑制しようとして、全身に力を込めたかったが、アクセルを全力で踏み込んでしまいそうだと気づいて、前走するタクシーに追突する想像をして、歯を食いしばった。
 それでも痙攣のような震えは、全身を奔る。
 気づいて、ブレーキを踏んだ。橋の真ん中で。慌ててバックミラーを見ると後続車は無かった。幸いにも追突は免れた。
 橋のほぼ中央で立ち往生する形となった僕の車の脇を、怪訝な顔で覗き込んでいく、自転車の学生が幾人もあった。
 とにかく車を通行の邪魔にならない場所へ移動することに意識を集中しようとした。そろそろと、アクセルを踏み、駅の駐車場を目指した。ほんの数メートル先に見える駅の入り口が遥か向こうに見える蜃気楼のようだった。太陽が車内を真っ赤に染めた。僕は気力を振り絞って、ハンドルを握りしめ、ともすれば制御不能に陥りそうな自らの体に、急激な緊張と弛緩を齎さないよう意識的に命令を出しながら、何台もの後続車にクラクションを鳴らされ、追い越されながら、駅の駐車場に辿り着いた。
 先に駐車してある車へ接触しないように細心の注意を払って、決められた一台分の白線の中に車を収めるのに、何度も微動して、ようやくのことでエンジンを切った時、僕は深い安堵と再び襲ってきた恐怖感に震えた。固く目を閉じ、歯を食いしばり、何度も深呼吸を繰り返したが、まるで突然電池切れを起こしたみたいに指はハンドルを離せなかった。
 駅で客待ちをしていたタクシーの運転手が怪訝な顔でこちらを見ているのは知っていたが、それが人の顔だと認識出来なかった。いや、その時、目に映る全てが崩壊していた。

 二度目に同じ事が起きたのはそれからおよそ一年後だった。当時僕は、大学に合格し地元を離れ違う街で一人で生活していた。
 一年前と同じように車の中で固まり怯えていると、救急車がやってきて、救急隊員が車の外から僕に呼びかけて来た。その声は聞こえた。僕は顔を上げて窓一枚隔てた救急隊員の顔を見た。彼が何か言うのが聞こえたが、くぐもっていて、何と言っているのか分からない。その時耳鳴りにも気づいた。僕は首を振った。

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