どう書く一橋大国語3現代文2020

2020一橋大学 問題三現代文(評論・約1800字)30分
 〈老い〉がまるで無用な「お荷物」であって、その最終場面ではまず「介護」の対象として意識されるという、そんな惨めな存在であるかのようにイメージされるようになったのには、それなりの歴史的経緯がある。生産と成長を基軸とする産業社会にあっては、停滞や衰退はなんとしても回避されねばならないものである。そしてその反対軸にあるものとして、〈老い〉がイメージとして位置づけられる。生産性(もしくはその潜勢性)や成長性、効率性、速度に、非生産的=無用なもの、衰退=老化――そういえば社会システムの老化のことを「制度疲労」とも言うのであった――として対置されるかたちで。〈若さ〉と〈老い〉という二つの観念は、産業社会ではたがいに鏡合わせの関係にある。
 鏡合わせとは対になってはたらいているということであるが、その二つはいうまでもなく正負の価値的な関係のなかで捉えられている。そして重要なことは、〈老い〉が負の側を象徴するのは、時間のなかで蓄えられてきた〈経験〉というものにわずかな意味しか認められないということである。〈経験〉ということで、身をもって知っていること、憶えてきたことをここでは言っているのだが、産業社会では基本的に、ひとが長年かけて培ってきたメチエともいうべき経験知よりも、だれもが訓練でその方法さえ学習すれ使用できるテクノロジー(技術知)が重視される。機械化、自動化、分業化による能率性の向上が第一にめざされるからである。そしてこの「長年かけて培ってきた」という、その時間過程よりも結果に重きが置かれるというところから、〈経験〉の意味がしだいに削がれてきたのである。〈老い〉が尊敬された時代というのは、この〈経験〉が尊重された時代のことである。かつて、いろり端での老人と孫との会話では、孫は老人から知恵と知識を得た。現在では、老人が孫からコンピュータの使い方を教わる。
 〈経験〉がその価値を失うということ、それは〈成熟〉が意味を失うということだ。さらに〈成熟〉が意味を失うということは、「大人」になるということの意味が見えなくなることだ。
 〈成熟〉とはあきらかに〈未熟〉の対になる観念である。生まれ、育ち、大人になり、老いて、死を迎える……。そういう過程としてひとの生が思い浮かべられている。そのなかで大人になることと未だ大人になっていないこととが、〈成熟〉と〈未熟)として生の過程を二分している。
 これは別に、人間にかぎって言われることではない。〈成熟〉とはまずは生きものが自活できるということであろう。食べ、飲み、居場所をもち、仲間と交際することが独力でできるということ、つまりはじぶんでじぶんの生活をマネージできるということであろう。もっともひとは、他の生きもの以上に、生活を他のひとと協同していとなむという意味では社会的なものであって、だから〈成熟〉とは、より正確には、社会のなかでじぶんの生活をじぶんで、じぶんたちの生活をじぶんたちで、マネージできるということである。そのかぎりでひとにおいて成熟とはその生活の相互依存ということを排除するものではない。産み落とされたとたんに見捨てられ、野ざらしになって死にっきりということがわたしたちの社会ではよほどのことがないかぎりありえない以上、生まれたときもわたしたちは他の人たちに迎えられたのであり、死ぬときも他の人に見送られる。だれもが、生まれるとすぐにだれかに産着を着せられ、食べさせてもらうのであり、死ぬときもだれかに死装束にくるまれ、棺桶に入れてもらうのである。
 そうするとひとが生きものとして自活できるといっても、単純に独力で生きるということではないことになる。食べ物ひとつ、まとう衣ひとつ手に入れるのも、他にひとたちの力を借りないとできないのがわたしたちの生活であるかぎり、自活できるというのは他のひとたちに依存しないで、というのとはちがうのである。むしろそういう相互の依存生活を安定したかたちで維持することをも含めて、つまりじぶんのことだけではなく共同の生活の維持をも含めて、つまり他のひとの生活をも慮りながらじぶん(たち)の生活をマネージできるということが、成熟するということなのである。
 となると成熟/未熟も、たんに生物としての年齢では分けられなくなる。〈成熟〉には社会的な能力の育成ということ、つまりは訓練と心構えが必要になるからである。
――鷲田清一『老いの空白』
【筆者】鷲田清一(わしだ・きよかず)
1949年京都市生まれ。京大文学部卒。関西大文学部教授、大阪大総長、大谷大教授、せんだいメディアテーク館長、京都市立芸術大理事長・学長などを歴任。大阪大名誉教授、京都市立芸術大名誉教授。哲学者(臨床哲学・倫理学)。
【出典】『老いの空白』(弘文堂2003年/岩波現代文庫2015年)
人生における〈空白〉として捉えられてきた〈老い〉。しかし超高齢化時代を迎え、〈老い〉に対する我々の考え方も取り組み方も変化を余儀なくされている。〈老い〉を問題とする現代社会の有り様にむしろ問題はないか?「日常」「アート」「顔」など身近な問題を哲学的に論じてきた第一線の哲学者が、現代社会の難問に挑む。(出版社の紹介文より)
【解答例】
 右の文章を要約しなさい(二〇〇字以内)。
〈ポイント〉
・人間の〈老い〉と人間社会の〈成熟〉とを関係づけてまとめること。つまり人間社会の成熟は、人間の生物としての年齢では測れない。この文章は〈老い〉の持つ経験に価値を見いだせない産業社会への批判になっている。
・生産と成長を基軸とする産業社会では、過程よりも結果に重きが置かれることから、〈経験〉が尊重されなくなった時代では〈老い〉は負の価値しか持たない。
・〈経験〉の意味がその価値を失う、つまり〈成熟〉が意味を失うということは、「大人」になることの意味が見えなくなることである。
・成熟するということは、相互の依存生活を安定したかたちで維持することを含め、他のひとの生活も慮りながらじぶん(たち)の生活をマネージできるということである。
・〈成熟〉には訓練と心構えという社会的な能力の育成が必要になる。
・だから、成熟/未熟はたんに生物としての年齢だけでは分けられない。

★過程より結果に重きを置く産業社会では、老いは負の価値しかないと意識される。経験は価値を失い、成熟することの意味が見えなくなる。しかし、人間は相互の依存生活を安定した形で維持することを含め、他の人の生活も慮りながら自分たちの生活をマネージできるという成熟した社会に生きるものだ。その意味で、成熟は単に生物としての年齢の問題ではなく、訓練と心構えという社会的な能力の育成を必要とするものとして捉えられる。(200字)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?