どんなふうに死にたいか
子どもが生まれたとき、どんなオヤジになりたいかと自分に問うたことがあります。
子どもが成長していくにつれ、自分がどんなオヤジとして死にたいかについても考えるようになりました。
カッコいいオヤジであの世に行きたいな。
でも、病気で苦しんで、死神に命乞いをするかもな。
などいろいろと考えることがありました。
人生100年だと考えると、まだまだ先は長く、現に生への執着はなんら減衰してはいません。
それでも最近は「終活」という言葉にも興味津々なんです。
以前から興味を持って池原充子さんの終活に関するnote記事を読ませていただいてました。
予期せぬことで驚きましたが、池原さんが私の記事について記事に書いてくださっていました。ありがとうございます。
文中の、
「自分たちの人生も、いつか、終わりがやってくる」
という言葉は、若い頃でも暗い海の灯台の灯が明滅するように脳裏に浮かんでいました。
今、さらに年齢を重ねてきて、明滅する頻度は高くなったけど、残りの人生をいかに充実させて生きていくかをどこまで掘り下げて考えているかというと、案外深くないと感じています。
悔いのない人生を送るために遺書を書く、というのが自己啓発セミナーでもよくあります。
涙を流しながら書いていくと、真剣に自分の人生を見つめなおすことができるということだと思います。
終活もそれに似ているのでしょうが、私の素人発想ですが、
葬儀のことや遺産のことや、今ならネット関係のIDの抹消やら、いろいろと細かいことを整理することで、漠然とした不安も整理され、気持ちも身軽で身ぎれいになるのではないかと想像しています。
若い頃から、自分の葬式を想像することがありました。
その頃から意識はずいぶん変わり、葬儀はしないで散骨してもらえばいいかなあ、と考えていた時期もありました。
漠然と考えているだけで、実際にどうやるかなどはまったく考えていませんでした。
中高年という年齢になってからは、葬儀は残された者のためでもあると考えるようになりました。
しかし、
多様化している現代ではどんな葬儀があるのか、
費用はいかほどかかるのか、
私の住むこの地方の葬儀しか知らないままでは、選択肢は非常に狭いのではないか、
などと考えるわけです。
葬儀だけではなくて、
思いを残して死ねない、ということだってあるような気がします。
「気がします」とあいまいな表現をしましたが、ふだんはやることが多くて、noteも更新しなきゃならないし、具体的に考えることはないからなんですね。
もう何十年も会っていないかつての友人に、言っておきたいことがある。
あの人を探し出して、ひとこと謝らなくてはならない。
おっと、その前に、妻にやってあげるげきことがたくさんあるのではないか。
息子たちに伝えておくべきことがあるのではないか。
そんなことを考えると、まるで整理できていないことに気づきます。
プロの力を借りることで、それ以外に気づかずにいることの多くを知ることができるのだろうと思います。
もしかすると、自分で封印していた心の奥底の思いを、自分自身で解き放つきっかけをつかめるかもしれない、など勝手に想像しています。
池原さんが紹介してくださった記事中の老夫婦についてですが、
とても古い家屋でしたが、中に入るとなんとなく清潔感が漂っているような気がしました。
部屋には住む人の心理が反映するといいますが、まさしくそうだったのではないかと思います。
部屋の整理はしたが、心のささくれは癒やされずに、リバウンドして部屋がふたたび荒れるということもよく聞きます。
心の整理にも「終活」は有効ではないかと思っています。
なので、これからも勉強させていだきます。
もしサポートしていただけたら、さらなる精進のためのエネルギーとさせていただきたいと思います!!