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【cadode】ができるまで:ebaルート

たった一つの行動が世界を変えることもある。

ebaの場合は作曲家・川口進への電話だった。

「アニメがすごい大好きで、当時『けいおん!』が流行っていた。クレジットを調べると、『けいおん!』の曲を作っている人が自分が住んでいる富山にいる。熱量はあったので、いてもたってもいられなくてホームページに載っていた事務所の電話番号に電話をかけてしまって(笑)」

電話には運良く川口本人が出た。

どんな話をしたか細かくは覚えていない。

ただ自分がどれだけ『けいおん!』が好きか。同じ富山県民の川口が『けいおん!』の曲を作っていることを誇りに思っていると熱っぽく伝えた。

「めちゃめちゃヤバいファンみたいになってた(笑)。『けいおん!』の話の流れの中で、『僕も音楽作っているんです。よかったら聞いてください』と話したら、『いいよ』って」

「それで川口さんの事務所まで行って聞いてもらって。川口さんは『いいね』って言ってくれて、音源を事務所の社長に送ってくれた。そこから僕の作家人生が始まった」

同人音楽は作っていたが、プロを目指していたわけではなかった。富山の工場で働く青年はこうしてプロ作曲家の道に進むことになった。

凡人だと気付かされた中学時代

小学生の頃は体が弱かった。

けれど親の方針でプロテインを飲み始めると体も成長し腹筋はバキバキになった。

運動力がイコールでモテにつながるのが小学生。クラスメイトの女の子たちからデザートをもらう。eba史上最もモテた時期だった

「若い頃は成長の差で運動能力って顕著に変わるじゃないですか。それが中学生、高校生ぐらいになってくると詰まって、やがて追いつかれる」

「周りが本来持っている能力、才能を開花し始めると『意外とオレ凡人だな』と感じて。1回成功を知った上で凡人と認識させられると、結構つらいんですよね。落ちこぼれ感が出るというか...」

気づいたのは凡人だったことだけじゃなかった。吃音であることも中学で自覚させられた。

「小学校のときは意識していなかったけれど、中学ぐらいに明確に俺は人と違うんだということに気付いて。結構ダウナー入ってました。小学生の頃は滑舌が悪いとは言われていたけど、ただ滑舌悪いくらいな感じだと思ったんですけど...。全然人と同じようにしゃべれないことがダメージになっていた」

そんな中学時代のebaを救ったものが2つある。

一つは松本人志の笑い

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「どんなにつらくても笑えるというのが結構でかくて、かなり救いになっていた。松本人志さんの『一人ごっつ』も大好きだし、『VISUALBUM』『ごっつ…』のトカゲのおっさんとかもそうだし、映画の『大日本人』も。その哀愁と切なさが入り混じった笑いがすごい大好きで。音楽的にも哀愁とかノスタルジーみたいなものって、そこから来ていると思っています」

そしてもう一つが音楽。中学時代、友人の家でアイアンメイデンを聞いた。

「音楽の目覚めはそこですね。友人の親が尺八の師範代で(笑)。敷地に家が何戸もあって、その敷地の中の別邸みたいなところにそいつの家があって、よく遊びにいっていた。それにたまたま、うちの父が楽器をやっていて、オーディオおたくで、家にレコードがたくさんあってという環境だったので、音楽も始めやすかったのかな。もともとギターとかもあって」

一番最初に取り組んだ楽器はベースだった。アイアン·メイデンのベーシスト、スティーブ·ハリスの指弾きにあこがれた。

「それでベース始めたんですけど、つまんないなと思って(苦笑)。メタルのベースってストイックなんですよ、何か。そんなに目立たない割には、ひたすらストイックにリズムを刻まなきゃいけなくて。とくに昔のハードロックは。しんどいなと思って、ベースをすぐやめて、家にあったギターを始めました」

アイアン・メイデンにはじまり、ガンズ・アンド・ローゼズ、メタリカ。ロベン・フォード、リー・リトナーやラリー·カールトンとジャズ・フュージョンも聴いた。

「ただ田舎で、ドラムがいない(笑)。だからあんまりバンドがっつりという感じではなかったですね。やるとしても初心者の先輩とかをちょっと誘って。当時ジャンプ(の広告)とかにあったドラムセット1万9,800円のzombieみたいなメーカーのやつを買って、組み立てて、ちょっとやって、すぐ飽きるを繰り返してましたね。中学校は音楽が好きでずっとやっていましたね」

人生を変えたドイツへの一人旅

高校にはあまりよい思い出がない

小中と9年間一緒だった友人たちとも離れ、友達がなかなかできない。音楽でもJ-POPを聞いている人間を心のどこかでバカにしていた。

アニメも好きだったebaは、クラスのカーストの下にならないよう対策を打った。

「高校では柔道部入ったんです。腕力でも上、学力でも上となってオタクやっていれば、そんなにいじめも起こらないし、一目置かれる。とはいえオタクへの『キモッ』みたいな目線はあったんですけど、そうは言わせねえみたいな空気感を出していて。オタクを楽しむ、趣味を楽しむ意味ではすごい充実していたけど、人の関わり合いではあまり充実はしていなかったですね」

学校でできない交流はネットの世界で行った

「mixiとか、あとハンゲームというのが当時はやっていて。あれってコミュニケーション取れる仕組みだったんで、ボイチャしながらゲームしたり。ずっぽりはまっていました。その頃に使っていたハンドルネームがebaで。ずっと引き継いでいますね。mixiはコミケとか同人音楽系のコミュニティに入っていて。むしろそっち側が学校よりも主戦場だったというか、いろいろコミュニティを広げていった」

音楽ではアイアンメイデンの出会いからメタルに傾倒。各々の地域に根付いた土着の思想などを取り入れたフォークメタルにはまった。

特にはまったのがドイツのヴァイキングメタルバンドだった。

「マイナーなバンドだったので、CDが日本にあまりない。なのでホームページに英語で『CDくれよ』とメールを送っていたら、いつの間にか仲良くなって。『よかったらドイツ来なよ』って。たぶん向こうは冗談で言ったんですけど『分かった』って(笑)」

ドイツへの資金を貯めるためガソリンスタンドでバイトした。時給は650円。必死に働き、ドイツ・ミュンヘンまでの旅費を稼いだ。ドイツ語はしゃべれず、英語は高校で勉強したレベル。

そもそも富山からほぼ出たこともなかった

「それが、いきなりドイツ(笑)。海外に行く前に、乗り換えの空港でめっちゃ感動しちゃって。ドイツに行く途中、トランジットでロシアに8時間ぐらい滞在したんですけど、めっちゃ怖かった。日本の空港ってお客様として扱うけれど、ロシアは高圧的で『靴脱げ、お前』みたいな。こいつ銃持ってんじゃないかという感じで。旅の間、何回も感動してショックを受けて価値観が本当に変わった」

ミュンヘンの空港に着くと、片言の英語でメンバーに電話する。

「とりあえず待ち合わせの場所と時間は把握できたから、日本で『了解』と伝えて(笑)。翌日、約束したミュンヘンの役所の前で待っていたら、メンバー5人が全員できてくれた。当時、ドラマーが抜けた直後で『こいつが新しいドラマーだよ』って新しいドラマーを紹介してくれて。そのあとはスタジオ見せてもらって、ご飯おごってもらって。芋とステーキみたいな感じであんまり味がなかったなあ」

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富山から一気にドイツ。これ以上はないカルチャーショックで、世界は一気に違って見えた。

「だから、どのタイミングでどこに行くかって結構大事だと思う。今、僕が海外に行っても綺麗だと感じるとは思うんですけど、そんなに感動しない。けれどあの時は0から一気に50、60の新しいものを知った」

この経験があったから川口に電話をかけるとき怖さがなかったとebaは笑う。

音楽を通してアニメの一部になりたい

音楽事務所に所属したebaだったが、なかなかコンペには参加させてもらえなかった。そこから1年間は工場で働きながら曲を書き続けた。

「まだ曲がないから、まずは曲をたくさん作れということで。1年後にやっとコンペに送ってもらえて」

その曲がいきなり決まる。アニメ『Starry☆Sky』のエンディング曲『Starry☆Days』だ。

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「挫折がなく、最初に出したコンペでいきなり曲が決まったのは大きかったです。それで決心がついたというか。これはもう行くべきだということで、富山の会社をぱっと辞めて、東京に出てきた感じですね」

上京するとmixiの同人音楽コミュニティで知り合い、一緒に音楽を作っていた友人の家に転がり込んだ。

「その友人の親がいくつか家を持っていて、一緒に空いている家に住んでました。山手線の近くの一軒家でいまより良い生活してましたね(笑)。ルームシェアしていた人間みんなが電気を使い過ぎるからブレーカーが落ちるんですけど、節電しようぜじゃなく、家主が『アンペア数を増やそう』みたいな、課金してアイテム解放しようぜなノリでした(笑)」

当初は作曲家であまり稼げなかったが、就職していた時期の貯金もあった。1年目はなんとか食いつなぐと、2年目で貧乏ではあったけれど音楽で食えるようになった。

「ありがたいことに、よく言うバイト三昧みたいなことはなく、音楽という意味では順調ではあったかもしれないですね」

音楽を作るのを苦だと思ったことはない。音楽を通してアニメの一部になりたかった

「アニメが大好きすぎて、アニメの世界に入りたい、関わりたいという気持ちしかなかった。そこはもうただただ幸せにやれていました」

順調な作曲家としての歩み。けれど、ある日ふと気づく。

同人の頃は自分発信の音楽を作っていたけど、プロになってから作ってないことに。

「仕事たくさんこなしてきて、何かちょっとだけルーティンになっているなと思ってしまった時期があって、そのときに立ち止まって、ふと思ったというか。『あ、やってねえな。やった方がいいな』と思っていたけど、仕事忙しいし、機会もないしという感じで、何となく頭の中にあったという感じ。トリガーが後者だったというだけかもしれないですね」

そんなとき、koshiの歌を聞いた。

いけると思った。

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