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ラヴクラフトがやって来る④

 翻訳家の妻とラヴクラフトのクトゥルフ小説を翻訳しながら、その翻訳意図と思考プロセスを綴っていくシリーズの第4回です。

 今回からいよいよ「The Outsider」の本文の翻訳に入ります。

 Unhappy is he to whom the memories of childhood bring only fear and sadness. Wretched is he who looks back upon lone hours in vast and dismal chambers with brown hangings and maddening rows of antique books, or upon awed watches in twilight groves of grotesque, gigantic, and vine-encumbered trees that silently wave twisted branches far aloft. Such a lot the gods gave to me—to me, the dazed, the disappointed; the barren, the broken. And yet I am strangely content, and cling desperately to those sere memories, when my mind momentarily threatens to reach beyond to the other.

 これが序文の後の一番最初の段落です。
 今回はこれを解説しながら翻訳していきます。

※ この一段落分の日本語訳は、最後にまとめて掲載しておきますので「こまけぇことはいいんだよっ!」と言う方は、このエントリの末尾に急行して下さい。

 さて最初の文章から──。

文章1

 これなんですが、DeepL翻訳では「子供時代の記憶が恐怖と悲しみをもたらすだけの者は不幸である」と出てきます。

 いや確かに。
 意味するところは平たく言えばそういうことだと思うんですけどね?

  でも、それだとわざわざ「Unhappy is he to whom~」なんていう勿体ぶった言い回しをした原語の意図が出ませんし、せっかくこうして「he(彼)=どうやら主人公らしい」を強調しているのに、それが訳されることなく消えてしまうのはどうなんだろう?
 ということで、ここは「不幸なことに、彼は幼い頃の記憶が恐怖と悲しみでしかない、そんな人物である」みたいな感じに訳してみます。

文章2

 次です。
 これがまた一文が非常に長くてかつ面倒な言い回し、構造も複雑でまるで古いドイツ語の文章みたいです(汗)

 Wretched(「可哀そうな、悲惨な、惨めな」から「浅ましい、見下げ果てた、卑劣な」まで幅広いニュアンスがある単語)から始まっていますが、これも普通は「he is a wretched~」と作文するところを「Wretched is he~」と先ほどの「Unhappy is he~」と同じようなやり方を用いて形容詞を強調しています。
 また全体の構造を見てみると「who」以下が、最後の「far aloft」まで「he」に掛かっていることに加えて、A(赤線)とB(青線)のように「looks back upon」が「or upon」で繰り返されています。更にそのAの中で「with brown hangings and maddening rows of antique books」が「chambers」にかかるという何重もの入れ子構造になっている、と。

 「look back upon A or B ですから大まかな意味合いとしては「AもしくはBを振り返る(思い返す)」ということになりますが、AもBもその中身は修飾に次ぐ修飾で文章として繋げるのは大変です。(特にBは単語が示した要素を組み合わせるだけで大混乱ですよね)
 しかもキーとして使われている単語の意味も幅広く、ある意味乱暴に言えば「どうとでも取れる」ほどなので、それぞれの意味を正しく組み合わせた上でその意図するところを正確に洞察していかないと、正しい解釈に行きつかないようになっているという。
 そんな感じなので、読み解いているとまるで暗号を解読しているような気がしてきます。

 その中で、解釈が難しい部分をひとつ挙げるとすれば「awed watches in twilight groves」の「watches」という名詞です。これは「全集」のほうの訳では「眠れぬ夜」と訳されていますが、この「watch」には「観察」や「監視」という意味もあり、私達もこの解釈には当初相当迷いました。
 もちろん「night watch(夜番)」から端を発して「In the watches of the night(夜更けに=夜眠れずにいる時に)」という使い方もしますが、直接この「watches」を修飾している形容詞である「awed(畏怖の念を抱かせる)」や、その直後の in 以降から掛かって来る内容から考えた場合、これは彼がこれまで見てきた情景(観察してきた内容)なのではないか? 

 そんな風にも一旦は考えたんですが……。

妻「やっぱりこれって意味合い的には夜番(night watch)だよ!」
私「え? どうして?」
妻「だって、この城って後にも書いてあるけどずっと光が差さない場所なわけでしょ。つまりそれってずっと夜ってことじゃない?」
私「ああっ!!(勢いよく膝を打つ)」

 そうでした。この城は鬱蒼と茂った森のせいでずっと光が差さない城なのでした。その中での生活を「夜番」に例えたのでしょう。
 確かにそう考えると色々と納得がいきます。

私「なるほどね、それで眠れぬ夜というわけか!」
妻「まあ、眠れぬという表現は原文にはどこにもないけどね」
私「きっとニュアンス的にはずっと光が差さない日々を夜に例えているんだろうね」
妻「すると私達の見解としてはwatchesは夜の日々って感じ?」
私「そうだね、うん」

 それを加味した翻訳文は結局こうなりました。

「惨めなことに彼は、茶色いカーテンがあしらわれた気が狂いそうなほど古書の列が立ち並んでいる、広大で陰気な部屋で味わった孤独な時間に加え、歪んだ枝を静かに遠くの方まで揺らしているグロテスクで巨大な蔦に覆われた木々の黄昏時の木立の中にある、畏れを抱かせるような夜の日々を振り返っている」

 こんな感じでしょうか。
 後に続くこの段落の最後の文章2つに関しては、これまでの文章ほど煩雑ではないと思います。

Such a lot the gods gave to me—to me, the dazed, the disappointed; the barren, the broken. And yet I am strangely content, and cling desperately to those sere memories, when my mind momentarily threatens to reach beyond to the other.

「神々は私にたくさんの恩寵を与えた。この私に、だ。それは幻惑であり、失望であり、不毛であり、破壊であった。にもかかわらず、私は依然として妙にそれに満足感を覚えており、心が一瞬でも他のものに手を伸ばしてしまいそうになると、その淡い記憶に必死にしがみついてしまう。」

 これで最初の段落は終了です。

 では、この一段落分の対訳を最後にまとめて載せておこうと思います。

【原語】
 Unhappy is he to whom the memories of childhood bring only fear and sadness. Wretched is he who looks back upon lone hours in vast and dismal chambers with brown hangings and maddening rows of antique books, or upon awed watches in twilight groves of grotesque, gigantic, and vine-encumbered trees that silently wave twisted branches far aloft. Such a lot the gods gave to me—to me, the dazed, the disappointed; the barren, the broken. And yet I am strangely content, and cling desperately to those sere memories, when my mind momentarily threatens to reach beyond to the other.

【日本語】
 不幸なことに、彼は幼い頃の記憶が恐怖と悲しみでしかない、そんな人物である。惨めなことに彼は、茶色いカーテンがあしらわれた気が狂いそうなほど古書の列が立ち並んでいる、広大で陰気な部屋で味わった孤独な時間に加えて、歪んだ枝を静かに遠くの方まで揺らしているグロテスクで巨大な蔦に覆われた木々の黄昏時の木立の中にある、畏れさえ抱かせるような夜の日々を振り返っている。神々は私にたくさんの恩寵を与えた。この私に、だ。それは幻惑であり、失望であり、不毛であり、破壊であった。にもかかわらず、私は依然として妙にそれに満足感を覚えており、心が一瞬でも他のものに手を伸ばしてしまいそうになると、その淡い記憶に必死にしがみついてしまう。

 こんな感じになりました。

 やっぱり解説したり意図を説明したりしていると、すぐにこれくらいのボリュームにはなってしまいますね(汗)
 その一方で、本文の翻訳に入ってからは反応はがくっと減ってしまい、如何に英語の長文を読み解くなどという記事が、一般には需要がないかを思い知らされる結果になっております。(私、何か皆さんから総スカンを食らうような地雷を踏んだりはしてませんよね?(苦笑))

 幸いにといいますか、その妻の生徒さんの中学生の方などは、ここを見つけて興味深く読んで下さっているとお聞きしましたので、今後もしばらくはこのまま解説を続けていこうかと思っています。

 興味のある方はよろしくお付き合いください。


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