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colors

 僕は色が見えない、生まれてからずっと。見えるのは白と黒だけ。白と黒、おそらくもっとも単純な色で一番端に存在している色だ。色とはどんな物にでもある、そう聞いた。でも僕にとってはそうではなかった。僕が色を認識できないのか、それとも色なんてものがそもそもなかったのだろうか。
 僕は白黒の部屋にいた。ベッドや机、絵本の中身やテレビの映像さえも全てが白と黒たった。そんな部屋で僕は生きていた。食べ物は時間になると自動で出てきた。ドアとは別に少し大きい窓くらいの扉があり、そこを開けると食べ物がある。食べ終わると同じ場所に戻し扉を閉める。おそらくエレベーターのようになっているのだろう。出てくる料理はもちろん白黒だ。でも味は美味しい。不自由は特になかった。いろいろなことを学んだ。人に会ったことはないが、言葉はテレビや音楽、そしてプログラミングされたであろう何者かの声から学んだ。彼または彼女はとても物知りだった。僕が何か質問すると、必ず答えをくれた。毎日、僕は彼と会話をしていた。彼は様々なパターンで返してくれた。僕と同じくらいの歳の子や独特の言葉を使う若い女の人、昔ながらの言葉を使う老人など、まるでたくさんの人と会話をしているようだった。勉強もした。世の中の常識や学校で習う基本的なこといろんなことを学んだ。知りたいと思えば、本や映像も見ることができた。だから色についても十分理解している。例えば空は青いだとか、トマトは赤いなど、どういう時に人はその色を認識するのかという基本的なことや何色と何色を混ぜれば何色になるだとか、その色が人に与える効果なども理解している。おそらく色についてなら誰よりも分かっていると言えるかもしれない。

 ただ僕はその色というものをこの目で見たことがない。だから実際は青がどんな色で赤がどんな色かもわからない。知識として知っているだけだ。
 あるとき、声だけの彼に色とはどんなものか尋ねた。
「色とは可視光の組成の差によって感覚質の差が認められる視知覚である色知覚、および色知覚を起こす刺激である色知覚を指す、とあります」彼は答えた。
「うーん、そうじゃなくて、もっとこう具体的にわかりやすく答えてくれないかな」
「私は人間ではありませんので、それは難しい要望です」
この部屋、もしかしたら何かの施設かもしれないがここから出れば色をこの目で見ることができるかもしれない。この部屋に窓はある。しかしそこから見える景色も白と黒だ。天気は変わるが、ほとんど同じ景色であった。おそらく映像を見せられているのだろう。それでも窓の外を見ることが多くなった。その景色に頭の中で色をつける。しかし僕のパレットには白と黒しか存在しない。空は青いということを知っていても、その色がわからない。想像もできない。外の世界には色があるのだろうか。もしあるのなら見てみたい、ただ単にそう思った。
 僕はここから出ることにした。まずはその方法を考えた。ドアはこちらからは開かない。そもそも開いたところを見たことがない。もしかしたらただの飾りで実際にあけることはできないのかもしれない。ドアから出ることは諦めた。そうなると残るのはただ一つ、食事が降りてくるあの小さな扉だ。大きな鍋なども運ばれてくることもあり中はそれなりに大きく、幸い僕はそれほど大きくない、体を折り曲げ膝を抱えると入ることが出来そうだ。しかしその先に何があるのか全くわからない。ひとまず僕は彼に尋ねることにした。
「この食事はどこからくるの?」
「この食事はこの部屋の上にある厨房で作られそのまま運ばれてきます」
彼ではなかった。今日は彼女だ。
「その厨房は広い?」
「わかりません」彼女は機械的に答えた。
「ありがとう」
さて、どうしたものか。これ以上何か情報を得ることもできそうにない。仮に厨房に行ったところでそれからどうすればよいのか、全く分からない。それでも僕はやめなかった。
 そしてその次の日、僕は外に出ることにした。恐怖というものはなかった。もし失敗し、何かに捕まったところでおそらくまたこの部屋に戻されるだけだろう。それか殺されるか。しかしここから抜け出すことはこれ以上耐えられないだとか助けを求めてだとかそんな大げさな理由ではない。ただ単純に色というものをこの目で見たいだけである。色を一目見て、満足すればこの部屋に戻ることも十分にあり得る。
 いつも通り食事が運ばれてくる。彼が今日の料理について説明している。どうやら今日は僕の好きな食事らしい。真っ白なご飯、赤いであろう焼鮭、そして味噌汁。理想的な朝食だ。
 朝食を残さず食べ、食器をその小さな扉の前に置く、ドアをスライドさせ食器ではなく自分が入る。中は僕が入るのに十分な広さだった。ドアを閉めると自動で上がる仕組みだ。ここから見た部屋はどこか他人の部屋に見えた。僕はドアを閉めた。「いってらっしゃいませ」そう聞こえた気がした。

 僕を乗せたまま、小さなエレベーターは上がっていく。ゴウゴウという音、薄暗い壁が置いていかれる。少しの揺れとともに、僕を乗せた小さなエレベーターは止まった。目を凝らし、取手のような窪みに手をかけ横に引く。しかし開かない。こちらからは開かないのか。そう思ったが、反対に引く、すると白い部屋が見えた。僕のいた部屋ではない、フライパンや包丁、食器があった。もちろん全て白と黒である。僕は小さなエレベーターから出た。辺りを見る。誰もいない、人がいた痕跡もない。全て綺麗に片付けられている。仕事を終え、店じまいをする飲食店のようだ。僕はそのまま大きな両開きのドアに向かい、開けた。右は行き止まり、左には道があった。僕は左へ進む。誰もいない、聞こえるのは僕が裸足で歩くペタペタという音だけである。所々、ドアがある。いくつか開けようとしたがどうやら鍵がかかっている。入るのは諦め僕は道なりにまっすぐ進んだ。
 丁字路にぶつかる。左右を見る。右の通路の奥は行き止まりだった。左には上に行く階段というものがあった。左に進んだ。ここまで通った道には窓がなく、外の様子をみることができなかった。おそらくここは地下なんだろう。階段を上る。そういえばこれまでに見た映画や小説では、脱出する時に追手がくるというのがお決まりのパターンだったのだが、誰も追ってこない。人がいる気配もない。運がいいのだろうか。そんなことを考えながら階段を上る。階段は長かった、ある程度上れば折り返し、また上れば折り返す。そんな調子だった。運動はあまりしていなかった。少し疲れた。そしてその折り返しが終わりドアが見えた。
 ドアノブに手をかける。そのまま下げて体で押す。僕の力に押されてドアが開く。その隙間から風と白い光が通り抜けた。
 外だ。紛れもなく僕は外にいる。しかし、僕の期待は真っ白な空に淡く消えた。外の世界は白と黒だけであった。

 空は青ではなかった。曇っているのかと思った。しかし曇り空は空の青が隠れ、一面が白くなる。しかしこの白はそうではなかった。白い雲がちらほらあった。雨も降っていない、真っ暗な夜でもない。つまり外は晴れだ。あたりを見回すと他の建物はなかった。あるのは木々、もちろん緑と茶色ではない。後ろを振り返り、自分が出てきた建物を見る。建物は白い、そう見えるわけではなく、おそらく本当に白い。凹凸のない無機質な四角の建物、不愛想な見た目だ。地面にも色はなく、あるのはごろごろとした感触だけであった。
 もしかしたら色なんてものは存在しないのかもしれない。僕が地下にいる間に、何かが起こり世界から色が消えてしまった。そして何かの実験のために僕は隔離されていた。そう考えるとなんとなく説明がつく。何のために僕が隔離されていたかは分からないが、もしそうであったとしたら上手くはいってなさそうだ。
「さてどうしよう」
戻るという選択もあった。しかし戻っても何も変わらないだろう。とりあえずあたりを歩くことにした。何か見つかるかもしれない。

 僕は歩き始めた。草の感触は柔らかく、くすぐったい。石は硬く、痛い。すべて知っていた。しかし知らなかった。僕の体を触る風は優しかった。あの部屋の風はどこか無機質で何も感じなかった。初めて触れる自然、すべてが新鮮だった。
草むらを歩いていると何か小さいものが跳ねた。まさかと思い、ゆっくり近づく。また跳ねた。バッタだった。なんとか捕まえる。
「これはショウリョウバッタか、しかもオスだ」
オスのショウリョウバッタはメスに比べて小さい。しかしなんて小さくて柔らかいのか、力を込めれば壊れてしまうほどだ。僕は小さな命をそっと逃がした。バッタはどこかへ行ってしまった。初めて触れる命は小さくとも力強かった。彼よりも大きい生き物はたくさんいる。その中でも彼は生きていた。

 かなり歩いた気がする。疲れてきた。広い水の溜まり場があった。これは池なのか湖なのか。近くの岩に腰掛ける。日に照らされて温かかった。水中には魚がいた。さすがにこれは捕まえられない。釣り竿という道具が必要だ。当然持っていないのでその様子を見ていた。
僕以外に人はいるのだろうか。もし本当にこの世界から色が消えてしまっていたら。世界は混乱し、文明は崩壊して人類のほとんどがいなくなっているとしたら。そんな世界では僕は生きられない。すぐに死ぬだろう。だからといってあの部屋に戻り、前と同じ生活をするのは果たして生きていると言えるのか。まあ死んだとしても変わらないな。そんなことを考えていた。ふと、池または湖の反対側に塔のようなものが見えた。あれは何だろう。
 その塔に向かって歩き始めた。歩き始めると木々に隠れその塔は姿を消した。それでも僕はその方向に向かってまっすぐ歩いた。
宇宙から何かが飛来した、それらはとても強く、あっという間に地球を占拠した。そして何らかの装置で世界から色を奪った。そんな想像をしながら。
 その塔は鉄塔だった。大きな建造物だ。見上げるほどに大きい。この塔は電気を運ぶものだ。そしてまた違う鉄塔につながっている。これを辿れば建物がある。電気を使うということはそこに何かしらの知的生命体がいるかもしれない。人であってほしいが。とりあえず向かうことにした。
 電線を見上げながら木々の間を歩いていく。木の葉の隙間から太陽の光が漏れる、しかし相変わらず色はない。外の世界は想像していたよりもつまらなかった。もちろん、初めて触れる自然は魅力的で、生命が持つ力強さを感じることができた。ただそれでもどこか物足りなかった。やはり色なのか。そもそも色とは何なんだろう。しかし誰も答えてくれない。だから考えるのはやめた。
 どれほど歩いただろうか、おそらくもうあの部屋に戻ることはできないだろう。どちらにしても戻るつもりもない。鉄塔の足が見えてきた。そのすぐ近くに木製の小屋があった。誰かいるのだろうか。僕は進んでいく。小屋は文字通り小さく、人は住めそうにない。誰かの作業場のようだ。ドアに手をかける。入る前にノックをするのがマナーだと思い出し、ノックをする、返答はない。ドアを開けた。中には作業机やヘルメット、丈夫そうな靴などがあった。ここまで裸足できたが、裸足は外を歩くのには向いていない。丈夫そうな靴を借りることにした。サイズも靴ひもを締めると問題なく履くことができた。僕が慣れない靴を履いていると、外から物音がした。
 何かいる、そう思いドアを開ける。音は小屋の裏側から聞こえてきた、裏へ回る。ざくざくと音がした。少し止まり、それが自分の足音だと気づく。靴を履くとこんな音がするのか。それとほぼ同じ時に茂みを駆ける音が聞こえた。その音は遠ざかっていく。おそらく大型の野生動物だろう。見たかった、鹿だろうか猪だろうか、もしかすると熊という可能性もある。後を追ってみようか。そんなことを考えていた時だった。


「ここで何してるの」
何かの音が聞こえた。それが人の声であるということが分かるまで時間がかかった。初めて人の声を聞いた。あの部屋にいた彼、または彼女の声は温度がなかった。しかし今聞こえた声には、温度があった。
「もしかして迷子?」
これは迷子なのだろうか。他にふさわしい言葉が見つからず、とりあえず僕は頷いた。
「大丈夫?」
彼女はそう尋ねながら近づいてきた。おそらく僕より少し年上であろう、しかし大人というにはまだ若い。綺麗な服を着ている。チェックのシャツ、そしてジーパンというやつだろう。
「どこから来たの?」
どう答えればいいのか分からない。正直に答えるべきなのか。ただ言ったところで信じてもらえるのかもわからない。
「お父さんとお母さんは?」
それは僕が聞きたい。
「とりあえず、うちに来る?」
何もわからず言われるがままついていくことになった。ただ分かるのはどうやらこの世界は得体のしれない何かに占領されてはいないようだ。

「名前は何ていうの?」
困った。名前というものは知っているが僕にはなかった。だから答えることができなかった。
「歳はいくつ?」
たしか、ケーキを食べた回数は、十五、六回だったはずだ。つまり僕はそれぐらいの年齢になる。
「十六歳です」
彼女は驚いていた。突然、喋ったからなのか、それとも十六歳に見えなかったからなのか。
「幼く見えるね。ごめん、もっと下かと思って子ども扱いしちゃった」
おそらく僕は平均から見ると背が高くないのだろう。
「大丈夫です」
僕は今、人と会話している。人との会話なんて考えたこともなかった。意外とうまく会話できている、自分ではそう思う。彼女の声は優しかった。感情というものがこもっているからなんだろう。僕の声にはこもっているのだろうか。
「着いたよ」
彼女の家は想像とは違っていた。長期休暇を利用し、昔ながらの立派な木製の祖父の家に来ている、そんな風に想像していた。しかし目の前にあったのは小さな小屋ようだ。先ほど見たものより少しだけ大きく、少しだけ綺麗であった。
「どうぞ入って」
言われるがまま入っていった。
「お昼食べた?」
この質問は昼を食べたというわけではない。昼食を済ませたかという意味だ。人と会話をしたことがなくともわかる。
「まだです」
「敬語、使わなくていいよ。そっちのほうが親しく感じるでしょ」
そう言って彼女は笑った。光も差していないのになぜか眩しかった。今のは何だろう。彼女の笑顔の所為なのか。笑顔にはそんな効果があるのか、知らなかった。
「ちょうどよかった、一緒に食べよっか」
そう言って彼女は準備を始めた。部屋の中は外側に比べて、とても綺麗だった。必要なものだけ置いてあるようだ。
「適当に座っていいよ」
部屋の真ん中に置かれた四角い机のそばに座る。おそらくこれは白い。あの部屋にあったものに似ている。
「お待たせー」
そう言って料理を机に置いた。
「おにぎり」
「そう、おにぎり」
おにぎりは食べたことはなかった。
「何が入っているかは食べてからのお楽しみ」
楽しみか。これまでそんなことは思わなかったな。何をやるにも自分でする、その行動のあとに待つものが分かっていた。予測ができていた。しかし目の前のおにぎりは彼女が作った、僕は作っているところも、ここに何の具材があるのかも知らない。定番のものは梅干し、昆布、鮭あたりか。
「見てても分からないよ」
そう言って彼女は笑った。僕も笑った。僕は今笑った、笑ったことはあったと思う。しかしそれを誰かと共有したことはなかった。おにぎりを手に取る。
「なんだか緊張するね」
これが緊張なのか。初めて感じる。緊張する場面などなかった。人の前に立ち何かを離す機会もなく、そもそも人がいなかった。映画や小説など緊迫した場面でも、どこか入り込めなかった。それが今、おにぎり一つに緊張している。
「早く食べなよ」
笑顔で彼女は言う。僕は思い切り口を開け、食べた。口の中で確かめるように噛む。しかしいくら噛んでも米と海苔の食感しかなかった。
「実は何も入れてません」
相変わらずの笑顔だった。僕はそれを見て笑った。心の奥底から楽しい、そう感じた。その時視界の端に見慣れないものがあった。それは白と黒以外の色だった。

 おにぎりの皿の端に見たことがないものがあった。それは沢庵だ。それは分かる。しかしそうではない。
「これは?」
「これ?沢庵だよ。お漬物」
「そうじゃなくて、この色だよ」
「黄色だよ」
そうか、これが黄色か。僕はじろじろと沢庵を眺めていた。
「どうしたの?沢庵初めて見るの?」
「いや、黄色を初めて見たんだ」
彼女はとても驚いていた。
「色が見えないの?」
「そうなんだ、白と黒以外。でも今は黄色が見える。他にも黄色はあるかな?」
「たぶん、あると思うよ」
僕は部屋の中で黄色を探した。レモンを見つけた。白と黒の中から他の色を見つけるのは簡単だった。しかしなぜ急に色が見えたんだろう。
「なんで急に見えたんだろうね」
「わからない」
理由なんて考えられなかった。ずっと黄色を見ていた。
「でも黄色って綺麗な色だね。見てると心が明るくなる」
彼女は頷いた。
「もっと色が見えるようになったらいいね」
「うん」
この世界から色が消えたのではなかった。安心した。
「ところで名前は?」
「名前はないんだ」
「忘れたとかじゃなくて?」
「うん」
「じゃあ名前つけてあげるよ」
「君が?」
「うーん、透はどう?」
僕は答えに困った。嫌だというわけではない。
「決まりね、あと君じゃなくて彩ね」
今日から僕は透らしい。彼女は強引だった、でも不快ではなかった。むしろ心地よかった。
「君と話していると、なんだか心が弾む感じがする」
それを聞いた彼女は口角を上げた。
「だから君じゃなくて彩」
「ごめん」
「どこから来たのかはわかる?」
僕は正直に答えた。嘘をつく必要もない。
「そんな物語みたいなこともあるんだね」
彼女は疑わなかった。おそらく普通ならこんなことを言っても信じてはもらえないだろう。しかし彼女は違った。僕の言葉を素直に受け止めてくれた。
「戻るつもりはないの?」
「うん、もう道も忘れたし」
「じゃあしばらく間、ここに居なよ」
「でもいいの?」
「ここは私一人だし」
「ありがとう」
僕は感謝の言葉を言った。
「彩はここで何してるの?」
「それは、ヒミツだね」
秘密ということは言いたくないんだろう。
「あれ、もしかして興味ない?」
「秘密だから聞かないよ。彩が言いたくなったら聞く」
彼女は一瞬驚いた顔をして、それから笑った。
「変わってるね。でも、ありがとう」

「ねえ、あれから色は見えた?」彼女と会ってから数日が過ぎた。
「黄色だけだね」
「そう、でもまあそのおかげでこうやって森を歩けている。感謝だね」
この森には昔、野生動物を捕らえるために仕掛けられた罠がたくさん残っているらしい。そしてその罠にはすべて黄色の目印が付いている。彼女はその罠を探して、それらを壊しているらしい。そして黄色だけ見える僕は手を貸している。
「ちょっと待って。これ見て」
彼女は地面を指さした。そこには小さな水溜りがあった。
「これは?」
「血だね」
これが生き物に流れているのか。
「これは赤いよね」
「見えたの?」
「いや、知ってるだけ」
「そうだよ、これが赤。夕日とかも赤だね」
「誰のだろう」
「たぶん罠にかかったんだ」
「罠って捕らえるだけじゃなかったっけ」
「中にはね、命を奪う罠もあるんだ。酷いよね」
「そうだね」
「あそこだ」彼女が指さした。
そこにはすでに息絶えた鹿が横たわっていた。そばに大きな黒い水たまりがあった。なんとか罠から抜け出したがここで力尽きてしまったんだろう。胴体には大きな矢が刺さっていた。彼女はその鹿に手を合わせていた。同じように僕も手を合わせた。
「行こう」
「うん」
彼女は何も言わなかった。あれほど明るい彼女も今は悲しんでいるのだろう。それを見ると心が押しつぶされそうになった。ただ命を奪うだけの道具。人間の黒い部分に初めて触れた。僕の心にドロドロとしたものがあった。これは一体何なんだろう。
家に帰る途中、雨が降ってきた。小雨だったものが激しくなっていった。僕は彼女の手を取り、走り出した。
「なんとか着いたけど、びしょ濡れだね」
家に着くと彼女は笑っていた。雨が流してくれたのだろうか。
「早くお風呂に」
「そうだね。あ、覗かないでよ」
「いつも言うけど、覗かないよ」
心が温かくなった。彼女が笑ってくれた。僕は彼女に笑ってほしかった。笑った顔を見るとこっちまで嬉しくなる。心の中に込み上げてくる温かいもの、これが嬉しさか。その時また見慣れない色を見つけた。
「これは?」僕はそれを手に取る。猫の置物だ。
「うん?それは猫の置物だよ」
「じゃなくて」
「まさか」彼女も察したようだ。
「オレンジ色だよ。橙色とも言うね。見えたの?」そう言って彼女が近づき、僕に触れた。濡れているはずなのに温かかった。
「だから、早くお風呂に」
彼女は嬉しそうに風呂場へ行った。

 これまでに資料で見た人間の多くは愚かでみっともなかった。どんな時でも争い、いがみ合う。しかし彼女からはそんな黒い部分を感じなかった。一緒にいると心が落ち着く、まるで物語の正義のヒーローのように真っ白で、僕を包んでくれる。安らぎというものを感じた。そしてまた一つ、僕に色が増えた。


「これは緑」
木の葉を指さし僕は言う。
「だんだん色増えてきたね」
あれからまた数日が経ち、見える色が次第に増えていった。緑をはじめ、茶色が見えるようになった。
「でも見てみたい色がまだなんだ」
「青でしょ」
「うん」僕は白い空を見上げた。
「ずっと言ってるね。大丈夫、いつか見えるよ」
「そうだね。あと赤も見えてないかな」
色が見えるようになる理由は分からない。ただ彼女と会ってから見えるようになった。彼女と過ごす毎日は楽しかった。以前の僕は生きているとは言えず、空っぽだった。しかし彼女と出会い色々な感情を感じることでようやく生きていることを実感した。彼女が色のない透明な僕を彩ってくれた。

 激しい雨の降る朝、目が覚める。体が重かった。頭もボーっとしていた。よろよろと立ち上がる。
「どうしたの?顔色悪いよ」
彼女は心配そうに言った。
「分からない、何だかボーっとするんだ」
彼女は僕の額に手を当てた。
「すごい熱。とりあえず横になって」
病気になったことはもちろんなかった。人工的できれいな空気の中で生きてきたからだろう。
「こんなにも辛いんだね。なんだか死にそうだよ」
「大丈夫、死なないよ。空を見るまで死なないんでしょ」そう言って笑った。
握られた手から温度が心まで伝わっていく。そして握られた手が離れ僕は落ちていった。
 彼女を見ていると心が温かくなる。いつでも彼女のことを考える。おそらくこれが愛か恋なんだろう。初めて会った時にはすでに芽生えていた。一緒に過ごすうちに大きくなっていった。しかし僕はそれを見て見ぬふりをしていた。でも今はその気持ちを受け止めている。彼女に会いたい。

 気が付くとそばに彼女はいなかった。名前を呼んでも返事はない。よろよろと立ち上がり、彼女を探す。玄関に彼女の白い靴は見当たらなかった。外は雨が上がっていた。僕は靴を履き、何も考えず彼女の足跡を追った。
 ぬかるんだ茶色の地面に続く彼女の足跡。僕は名前を叫んだ。僕の声は白い空に虚しく消えていった。嫌な予感がちらつく。僕は懸命に彼女を探した。

 どれほど時間がたったかわからない。その時、黄色い目印が見えた。僕はそれに近づいた。すると探していた彼女がそこにいた、鮮やかな赤色とともに。
何が起きているのか分からなかった。まだ夢を見ているのか。そんな都合のいいことはない。葉から落ちる水滴、鳥の鳴き声。彼らは一様に無関心だった。それがなおさら現実だということを伝えていた。彼女はすでに息絶えていた。僕はただずっと彼女を見ていた。

 「彩」彼女の名前を呼ぶ。返事はない。僕は近づき彼女に触れる。触れた彼女の手は冷たかった。さっきまでの温度はなかった。最後の言葉すら聞いていない。水滴が落ちてきた。雨ではない、悲しみが目から流れた。そうか、心に広がるこれが悲しみなのか。彼女の手に落ちた涙が空を映していた。見上げた空は透きとおった青だった。

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