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加藤さんの手仕事

病院で時々一緒になる加藤さんという人がいる。
「カトウヒロコさん」
偶然にも、歯医者と整形外科が同じだった。
40代ぐらいの女性で、専業主婦なのだろうか?いつも少しラフなスタイルだった。肩より少し長い髪を一つに縛って、くるぶし近くのロングスカートを好んで履いている。
向こうはこちらを知っているかはわからない。
加藤さんはいつも待合室で手芸をしている。
編み物だったり、パッチワークだったり、刺繍だったり。
夏の間は竹で編んだ籠を持ち、冬場はご自身で作られたのかキルト模様の見事な鞄を持っている。
それぞれからいつも糸が出ていて、その先の針を無心に動かしている。
大抵の人がスマホを眺めているか、待合室のテレビを見ているかの中で、加藤さんはせっせと手仕事を続けている。
歯医者も整形外科予約制で、本当なら待ち時間などほとんどないはずだけど、いつも30分は待つことになる。
私は本を読んでいるふりをしながら、加藤さんの手を見ている。
梅雨明けのある日、整形外科の待合室で、加藤さんの知り合いが加藤さんに声をかけた。
「あら、病院で会って訊くのもどうかだけど元気してた?」
「うん。まぁね」
加藤さんは相手の顔を見上げて応えたが、手は止まらない。
今日はレース編みをしているようだった。
「どうしたの?今日は?」
加藤さんが相手に訊く。
「実は先週車をぶつけられてね」
加藤さんの知り合いの女性は、加藤さんの隣に座ると、信号待ちで追突された事故の一部始終を語った。時々加藤さんが相槌を入れる。
「腰のむち打ちみたいな感じ?ずっと痛いのよね」
「それは大変ね」
加藤さんの手はちっとも止まる気配はない。
「そっちはどうしたの?」
「ん?腱鞘炎」
加藤さんの答えに「え?」っとなったのは私だけではなかった。
「腱鞘炎の人がそんなことしていていいの?」
そこでようやく加藤さんの手が止まった。
「ドクターストップで、キルトができないのよ」
「あぁ…」と相手は頷いた。
「あれは芯も入って厚いからね」
「そう。どうしてもやりたかったらミシンでどうぞって」
「ミシンだとちょっとね」
「そう。足踏みならいいんだけど」
「そうよね。真っ直ぐ刺すだけじゃないからゆっくりのがいいわよね」
相手もキルト制作の経験があるようだ。
「だから、あんまり指や手首に負担にならないものをやっているの」
「そうなの?」
自分も口には出さずとも同じリアクションだった。
「ほら、あそこの花瓶敷き。あれは私が作ったの」
加藤さんが受付のカウンターに飾られた花瓶を指して言う。
「あら、気がつかなかった」
帰りにカウンターを確認しよう。
「中待合のところにある刺繍と、診察室の刺し子の額も私」
「あら」
ここからではどちらも見えない。でも確かに額が飾られているのは覚えている。先生の趣味にしては優しい風合いで、せっかちそうな先生のイメージではないな、と思っていた。
「今は何?タティングレース?」
「そう」
加藤さんの指が動きだす。
「カトウさん。カトウヒロコさん。中待合へ」
「呼ばれちゃった、またね」
加藤さんはそそくさと籠を持って立ち上がる。
そして、一瞬こちらを向いてそっと会釈したような気がした。
つられて自分も会釈を返した。
加藤さんがふっと笑ったようだった。
何故かすごくドキドキした。
加藤さんも自分を覚えているのかもしれない。
次に会ったら、自分から声を掛けてみようか?いや、勇気がない。
とりあえず、中待合に呼ばれたら、加藤さんの刺繍を見ようと思った。