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Fly High

半年ほど前から一緒に住むようになった従弟は、いろいろあって「話す」ということをしなかった。最初の頃など意思表示もなく、こちらが言ったことをそのままするので、可愛いけれど不気味な存在だった。
周りの人は、僕にそっくりだという2歳下の従弟。
僕に似ているのかな?といつも思った。
大きな目、色白で、耳にかかる髪。女の子みたいだと思った。
「従弟って?」
僕の母の双子の妹の子どもだという。
僕の母は僕が生まれて間もなく亡くなり、僕は祖父に育てられた。とはいっても、祖父は仕事の関係で外国を転々としている。祖父の家で祖父の親戚だったり、祖父の家を管理している人々に囲まれて暮らしていた。祖父が落ち着いたら、僕らも祖父と一緒に暮らす予定だ。それが日本になるのか、海外の何処かの国になるのかはまだわからない。父親のことはよくわからない。家族は祖父だけだった。
そこへ従弟が、天明先生に連れられてやってきた。
従弟は祖母の家で暮らしていた。祖母といってもかつて祖父の妻だった人というだけで、よくわからない。
祖母の家で会っていた頃は小さなかわいいよく笑う子という印象だったけど、天明先生に連れられてきた従弟はほとんど笑わず、何も言わなかった。
祖母と従弟の母親が亡くなったのは大分前で、だけど、祖母の双子の姉である大伯母が従弟を世話していたらしい。その大伯母も亡くなって、従弟はここへ来た。
そういえば最後に会ったのは祖母のお葬式だった。そのお葬式に集まった祖母の親戚ていう人たちが従弟のことを邪魔者のように話していて腹が立ったのを覚えている。だからいつか一緒に暮らせたらいいのにと思っていた。
あのとき、親戚らを叱っていたのは大伯母だったような気もする。

話せないのではなく話さないのだ、と天明先生が言う。
そうだ。思い出した。
前に会った時は一緒に遊んだはずだった。
耳も聞こえる。声だって出せる。でもいろんなことがあって、今は言葉を出せないでいるのだと説明を受けた。

カワイソウニ。

僕はいつも従弟と一緒にいるようにした。
僕とふたりのときは従弟は少しだけ声が出たが言葉にはならなかった。
そして従弟にいろいろ教えた。
天明先生がいなくてもキャッチボールの相手が出来て嬉しかったけど、従弟はすぐに疲れてしまう。
後日、天明先生が「どうも、シンパイキノウが弱いらしい」と教えてくれた。だからキャッチボールは一度に10分ぐらいしかしないようにした。
従弟とキャッチボールをした後、まだやり足りないからフライボールを取る練習をする。
僕が高くボールを上げると、従弟はそれを追って、顔を上げる。
人は上を向く時どうして口が開くのだろう?
多分僕も開いているんだろうな。
ある日真っ直ぐに上げてばかりでもつまらないから、少しずらして投げてみた。
落下地点に移動して、ポスンとボールをキャッチした瞬間、見ていた従弟がパチパチと手を叩いた。
目を大きく見開いて僕を見ている。
僕は嬉しくなって、今度は従弟のいる方へボールを投げた。
そして従弟の方へ駆け寄り、目の前でボールをキャッチして見せた。
口をポカンと開けて驚いている。そして、キュッと笑顔になるとまた手をパチパチと叩いた。
本当に楽しそうに笑う。
「今度、取り方教えてあげるよ」
そう言うとこくりと従弟は頷いた。
僕たちは大きなベッドで一緒に寝ていた。従弟を真ん中に、僕は従弟の左隣に、そして従弟の右隣には白黒の謎のぬいぐるみがいた。今思うとあれはアリクイだったかもしれないしバクだったかもしれない。
ベッドで絵本を読んであげていた。従弟の年齢には少し子どもっぽいかもしれないと思ったけれど、悪い人も怖いものも出てこない優しい話の方が従弟には合うような気がして、いつも寝る前に読んであげていた。
「大好きなお友だちとずっと一緒っていいね」
絵本を閉じてそう言うと、従弟が「おにいちゃん、すき」と言った。
従弟の口から言葉が出るのを初めて見た。嬉しかった。思わず従弟をギュッと抱きしめた。従弟は僕の腕の中でほうっと静かに息を吐いた。
詰まっていたものが取れたのか、そこから少しずつ言葉を話すようになった。

僕らふたりの子どもの周りには多くの大人がいた。
天明先生は基本お医者様だけれども、お祖父様の仕事を手伝っている大事な人だと聞いていた。お祖父様よりだいぶ若い。僕は父親を知らないけれども、父親というより兄貴という感じだった。
従弟は僕とお祖父様、そして天明先生には話をすることができたけど、他の人たちとはほとんど話をすることなかった。
僕にキャッチボールを教えてくれたのも天明先生で「高校まで野球をやっていたんだ」と言い、ヨーロッパではあまり野球が盛んではないことをいつも嘆いた。大学以降はヨーロッパで過ごしていたという。キャッチボールだけではなくバッティング指導もしてくれる。でもそれが活かされるチャンスは今のところなかった。
専門チャンネルで野球の試合を観たり、天明先生が野球雑誌を持ってきてくれたりするけど、野球の話をできるの友達は学校にはあまりいない。みんなサッカーのほうが好きだと言う。僕と天明先生が話しているのを従弟はニコニコしながら聞いている。
「大人に野球チーム作ろうかな?」
「あははは」
「先生、なんで笑うの?」
「チームに入るじゃなくて、チームを作るっていうのがおまえらしいなと思って」
「そうかな?」
僕と天明先生のやり取りを青いグローブを左手につけた従弟はニコニコしながら聞いている。
「先生、フライボール打てる?」
「打てるとも。取ってみるか?」
「うん」
天明先生が大きく打ち上げる。
あぁ、打ち上げるってこんな感じなんだ。
僕はダッシュしてボールの落下地点と思しき場所まで駆けていく。
向きを変え、ボールを迎える瞬間チラリと従弟を見る。
背伸びしてこっちを見ている。
きっとまた口を開けて見ているんだろう。
ボールをグローブに収める。
「もう一回!」
叫んで戻ろうとする僕に向かって、天明先生が「球ならあるから戻ってくるな」と大きな声で返す。
天明先生がまた高く打ち上げる。
さっきのよりも高い。ほとんど真上に上がっているのがわかった。
「間に合わない!」
そう言いながらダッシュする。
「ほら、おまえが取るんだ」
天明先生が従弟の肩を叩く。
びっくりしたような顔をして、従弟がふらふらと前に出た。
ボールが落ちてくる。
僕は走るのをやめた。
「もうちょっと右」
二歩三歩右に動く。
従弟がグローブを遠慮がちに手前に出した。
「パスン」
音を立ててボールがグローブに収まった。
「やった!」
そう言って駆け出す。
従弟は信じられないといった顔でじっとグローブに中のボールを見ていた。
「おまえもセンスいいじゃないか。チーム作るんだったら入れてもらわないとな」
天明先生が従弟の小さな頭を大きな手で撫でた。
従弟はグローブの中のボールを右手で持つと、僕に見せた。
「青藍が初めて取ったフライだよ。記念にボールにサインしてとっておこうよ」
と僕が言うと、天明先生が笑い出した。
「そうだそうだ。サインしよう。日付も入れて記念のボールだ」
天明先生はいつも持ち歩いている鞄から油性ペンを取り出した。
天明先生の鞄はいろんなものが入っている。
「ほらまずは取った人から名前を書く」
「え?」
「ここに書くんだよ」
ボールの中で一番きれいな場所を指差す。
戸惑いながらも、従弟が名前を書く。ようやく書けるようになった自分の名前は、ボールの上ではよく読めない何かになった。
しょぼくれる従弟に天明先生が「サインぽくてかっこいいよ」と言った。
続けて僕が隣に名前を書いた。僕の名前も少し歪んだ。
「僕のもサインっぽい?」
「そうだな」
天明先生がボールとペンを持って、日付けと場所、そして「fly catch memorial 」と書いた。
細字のペンだったけど、ボールは文字だらけになった。
従弟はとても満足そうにボールを眺めていた。

結局、野球チームは作らないまま今に至っている。
一度イギリスに行ったが、今は僕も従弟も日本にいる。
少しずつ人にも社会にも慣れ、従弟は今は大学の研究室にいる。僕は祖父の仕事を継いだ。
天明先生は、アメリカにいる。
忙しいはずなのに、MLBの中継で、バックネット裏で見切れている時がある。
僕も従弟もそれを見つけると「ズルいよね。僕らも観たいのに」と文句を言う。そしてふたりでテレビ観戦をする。
あの時のボールは文字が少し薄くなったけど、今でも従弟が持っている。
きちんとケースに収めて書斎に置いてあるのだという。
僕もずっと子どもの頃に使っていたグローブを持っている。
幾度の引っ越しでもこれだけはなくさないよう気をつけた。
時々手入れをしていても今ではすっかり硬くなって、箱の中で眠っている。
子どもの頃の数少ないキラキラした思い出だった。

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20220923 修正