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月と雲

そういえばあれは迷惑な宿題だったよなぁ…と設置されたカメラに写る映像を見ながら、珍しく蒼月は昔を思い出していた。
蒼月は学校生活はほとんどイギリスで過ごした。
中学を終わるまでは、所謂インターナショナルスクールと呼ばれる学校に通っていた。様々な人種の友人ができたのはその時代があったからだと思っている。
学校生活はほとんどが楽しい思い出だった。
そして案外と楽しい思い出というものは今が充実していると思い出さないものだと蒼月は思っている。
今でもやり取りの続いている友人らから、かつての同級生の話でも出ない限り、学校生活を思い出すことはない。
「つまりは、今は退屈しているということか?」
定点観測10日目。進展はなし。

蒼月が12歳の時、理科の宿題に28日間の月の観測が出た。
毎日同じ時刻に同じ方向の空にどんな月がどのように出ているか?
「どのように?」
クロフォード先生は毎年同じ宿題を出すらしい。
先輩の話だと、クロフォード先生はどんな方角でもどんな時間でも月の運行のシュミレートをプログラムしていて、しかも天気も記録しているから嘘はすぐ見抜かれるのだという。
「ついに出ましたか。僕の家は周りが高い建物に囲まれていたから、午後7時でも月が見える時があまりなくて助かったよ。『観測できず』が続いても問題ないからね。だから窓からチラリと覗いておしまい」
先輩は少し得意げに笑った。
蒼月の家は、東から南にかけて森、反対側は観測に適した窓がない。
窓があっても自宅の木々に邪魔されている。
午後7時だと、東向きの自分の部屋の窓からは、月が見えることが多い。
午後7時になると2歳年下の従弟の青藍が「お兄ちゃん、お月様の時間だよ」と何をしていても教えてくれる。
一緒に窓から月を見上げてくれる青藍がいなかったら、絶対どこかで挫折していたに違いない。

「今だったら、青藍にシュミレーター作ってもらっていたよ」独言る。
その青藍は学会の研究会とやらで同じ研究室の教授のお供で福井にいる。
「つまらない」
青藍が大学に入った頃から、蒼月と青藍は別々の場所で生活している。別々といっても車で10分程度の距離だった。
すでに6年。去年からは青藍の大学からの友人が、青藍の住む家に同居している。
最初はそれも納得していなかったが、生活に関して全く無頓着な従弟が飢え死にすることなく住んでいるので、今は納得はしているつもりだし、その同居人が留守の時は、青藍は元々住んでいた、蒼月のいるこの場所に泊まりに来る。
それが今夜は青藍がこの町にいない。いろいろ心配もあったが、それ以上につまらないという思いもあった。

「お月様の周りすごいね」
満月の月を覆う雲を見て青藍が言う。
昨夜は雨が降っていた。
「お月様の時間だよ」と青藍は言った後「この雨じゃ見えないね」と付け足した。前日からあまり調子が良くなかった青藍はパジャマ姿だった。
雨は降らないまでも、今朝から雲の多い空だった。
蒼月が学校から帰ってくると、青藍が出迎えてくれた。
「熱はもう大丈夫なのか?
「うん」
「そうか。それはよかった」
2歳しか違わないのにだいぶ小さな青藍は、急な気圧の変化でも体調を崩すことがある。
その青藍が回復したとなると、今夜はもう雨はないのかもしれない。
そして午後7時。夕食を食べ終わってほっと一息ついていると「お月様の時間だよ。お兄ちゃん」と青藍が隣で言う。
ふたりで蒼月の部屋に行き、窓から空を見上げると、雲の合間から月がこちらを覗いているかのように、白く輝いていた。
「うわぁ、綺麗だね」
宿題ではない青藍が声を上げる。
蒼月は記録用紙に手早く空の様子を書き入れる。
正確な時刻を記入して、今夜の分は終了だった。
「お月様の形も違うけど、見える高さも変わるの、初めて知った」
いつも少し遠慮がちな話し方の青藍が少し興奮しているようだった。
「月が昼から見える時だってあるんだ」と蒼月が言うと「ホント?」と目を丸くする。
「今度気がついたら教えてあげるよ」
普段あまり外に出ることのない青藍の頭を撫でながら蒼月は言った。
まだ上空は風があるのか雲が流れているのがわかる。
月明かりに照らされる夜の雲がこんなに綺麗なものだとは思わなかった。なにしろこうやってゆっくりと夜空を見ていることなどあまりないことだった。
蒼月はそろそろ窓を閉めようと立ち上がった。
「お月様の周りすごいね。雲が…お月様が水の中にいるみたい」
「雲も水の粒だもんな」
「でも、お月様は本当はずーっと向こうにいるんでしょ?」
「そうだな。向こうからはこっちが水の中にいるみたいに見えているかもな」
蒼月が言うと青藍は楽しそうに笑顔になった。
この単調な宿題を出してくれたクロフォード先生に今は感謝した。

定点観測は今夜も動きがなかった。
職場を出て家に帰るまで「いつも通る道」に設置されているカメラで追う。
共犯者といつ接触があってもいいように様々な形で監視している。
職場での動向は、社内に潜り込ませた監視員が随時見ている。
そろそろ動きがあってもよさそうだが、ひょっとしてこちらが把握している以外にも誰かがいるのかもしれない。
「善意の共犯者」というのが一番タチが悪い。
覗いている様子も、上がってくる報告も今ひとつ何かしらぼやけているような気がする。
「開発した新技術・商品の情報が漏れているようだ」
という話をしてきた本人のことも当然調査の対象にしている。
「第一発見者が犯人のパターンって多いだろう?」緋村は言う。
それを含め疑わしき3人の様子をずっと調べている。
普段なら調査員に全てを任せているが、今回はいろいろ重なっていて、逆に珍しくしばらくはここでの仕事が続く蒼月も調査を手伝っている。
「青藍と一緒だったら楽しめたかなぁ」
そう思った自分を嗜める。
青藍にはこういう後ろ暗い世界を覗かせてはいけない。
不意に電話が鳴った。
青藍からだった。
蒼月は慌てて電話に出た。
「どうした?何かあったのか?」
青藍は用事もなしで電話をしてくる相手ではない。だから、遠くに行く際は目的地に着いたら連絡を入れるように言い聞かせている。その連絡は昼過ぎに入っていた。
「ごめんなさい。忙しかった?」
相変わらず少し遠慮がちな話し方だった。それでもこの頃は顔を合わせて雑談する時はだいぶ自然な話し方になっていた。
「いやいや。ちょうど暇をしていた。で、どうした?」
「月がすごく綺麗に見えて。そっちはどうかなぁ?って思って」
「あぁ」
蒼月はホッとすると共に先程まで月の観測の宿題を思い出していたので、なんだか少し愉快な気持ちになった。
「こっちは雲が出ていて、今は月に少し掛かっている」
「それも綺麗だね」
「青藍が見ている月も見てみたいな」
「写真送ろうか?」
「いいね。こっちも送るよ」
蒼月が応えると電話の向こうの青藍が少し笑った。
「おんなじ月なんだけどね」
「そうだな」
ほら、やっぱり青藍が一緒だと、空にぼんやり浮かぶ月さえも楽しいものになる。
明後日の駅への到着時刻を確認と、駅への迎えの約束をすると電話を切った。
スマホで雲に囲まれている朧月を写していたら、着信を告げる振動があった。
青藍が送ってくれたのは雲ひとつない空に浮かぶ満月だった。青みがかった白い月。
「兄さんの月です。蒼い月です」
「なるほど」これが言いたかったのだろう、と蒼月は思った。
蒼月は青藍に今撮った写真を送った。「朧月」とメッセージを付けて。
少ししてメッセージが届いた。
「ありがとう。一緒に見れて嬉しいです」
蒼月はもう一度、青藍の送ってくれた月を見た。
月の輝く空は深い青い色をしていた。