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青い金魚

さまざまな熱帯魚が泳ぐ水槽のガラスにペタリと両手と額をくっつけて見ている子がいた。
4、5歳くらい。もっと下だろうか?大きな目が印象的だった。
じっと一点を見つめているわけではなさそうだった。水槽の灯りに照らされた瞳は少し青く見える。そしてその青く光る目がキョロキョロと水槽の中を眺めている。
僕は魚ではなく、彼をじっと見ていた。
先ほどもこの子を見かけた。兄と一緒に来ているようだった。彼より10cmほど背が高い、とても似た面立ちの少年とさっきまで一緒に歩いていた。歳の差は3、4歳くらいだろうか?お兄さんは歳よりもしっかりしているようだった。
だが、今はひとり。ひょっとして迷子になったかもしれない。
声を掛けようと思っていたら、向こう側から急足であの子のお兄さんがやってきた。
「お待たせ、青藍」
『セイラン』はあの子の名前だろうか?
「何見てるの?」
声が聞こえていないか。セイランくんはじっと水槽にくっついたままだった。
「ん?」
お兄ちゃんが頭を寄せる。
「これは金魚じゃないよ。熱帯魚。ほらここに名前が付いている」
水槽の下に魚の写真と説明の書かれたプレートを指差す。
ようやくおでこを離したセイランくんがしゃがみ込んでプレートを見る。お兄ちゃんも一緒になってしゃがみ込んだ。
微笑ましく眺めていたが、しばらくするとセイランくんが立ち上がってまた何か言っている。セイランくんの声はとても小さく、自分のところには届かない。
「金魚はいないよ」
お兄ちゃんが言う。
「ここにはいるかなぁ」
僕はそっとふたりに近づいた。
「何か探しているのかな?」
セイランくんはサッとお兄ちゃんの背中に隠れた。
お兄ちゃんはぺこりと頭を下げたあと「ここには金魚いますか?」と言った。
セイランくんは少しだけ顔を出している。
実は先日まで淡水魚は、川魚と沼や湖にいる魚だけだった。
イベントで金魚を展示することはあったが常設での金魚はなかった。たまたま今企画展の名残の金魚が少しだけいる。
「今、少しだけなんだけど、先日までの企画展の名残の金魚がいるよ」
「そうなんですか?」
お兄ちゃんが「金魚、いるって」と後ろにいるセイランくんに言うと、嬉しそうな笑顔でお兄ちゃんの手を握りながら後ろから出てきた。
案内しながら少し話をした。
本当は企画展のうちに来たかったが、セイランくんの風邪が長引いて来れなかったこと。セイランくんは4歳でお兄ちゃんはソウゲツくんといって、もうすぐ小学校に入るという。
「ふたりだけで来たのかい?」
「えっと、上の階の講演をおじさんが聞いています」
この水族館はビルの1階にあり、2階3階は講演会などのイベントに使われるホールや、研修室などの貸しスペース。4階から8階まではオフィスビルになっていた。
それにしても子どもふたりだけでの水族館見学とは、とかなり驚いた。でも、このお兄ちゃん・ソウゲツくんのしっかりとした受け答えにも驚いた。
「ほら、あそこだよ」
大きな金魚鉢の形をした水槽を指差した。
青いライトに照らされた水の中で泳ぐ金魚は遠目にもキラキラしていた。
セイランくんが、繋いでいた手を少し引っ張ったようだった。
ふたりはパタパタと水槽に近づく。
「この間までは向こうのイベントエリアにいろんな水槽がセットされていたんだよ」
今は来月からのイベントの準備中だった。
特別イベントのない時は割と閑散としている。逆にそういう時だから子どもふたりだけでもいいと判断したのかわからないが、子どもふたりだけでの入館はそうそうあるものではない。
セイランくんがまた手をぺたりとくっつけて大きな金魚鉢を覗いた。
ソウゲツくんのシャツをチョンと引っ張って、何か言っている。
「え?」ソウゲツくんが聞き返す。
「青い金魚、いないの?」
小さい声だったが自分にも聞こえた。
「青はいないなぁ」
ソウゲツくんは言った。
「いないの?」
「うん。いない。ねぇ、お兄さん」
「青っぽい金魚はいるけど、青い金魚はまだ見たことがないなぁ」
セイランくんがしょんぼりする。それを見たソウゲツくんの元気がなくなった。
「ほら、この金魚」
ちょうどセイランくんの方に向かってきた金魚を指差した。
「青文魚というけど青というより、黒い感じだよね」
セイランくんがじっと見ていた。
「熱帯魚のような青い金魚は残念ながらないなぁ」
そこでふと思い出した。
「金魚ではないのだけれども」
ふたりを連れて、隣の淡水魚コーナーに向かった。
「淡水魚という意味では金魚と一緒だ」
青いベタを見せた。
琉金よりも長く揺れる尾鰭。
キラキラと光る姿をセイランくんはじっとみつめていた。

ソウゲツくんが「すみません」と時刻の確認をしてきた。
15時少し前だった。
「青藍、そろそろ天明先生来るから行こうか?」
セイランくんは頷くと、少し未練のあるような目でベタを見ると、ソウゲツくんに手を繋がれ出口へと歩き出した。

品種改良を重ねてもなかなか鮮やかな青色を身にまとう金魚は現れない。薔薇も金魚も青は難しい。
大人になった蒼月くんにあったのは去年の夏だった。20歳になった彼はやはり他の20歳よりも大人びていた。
「青藍はまだ青い金魚を待ってます」
蒼月くんは水族館を作るのだという。「本当は青い金魚がいたら分けてもらうつもりだったのです」などと言ってきた。
自分は10年前から金魚の品種改良の研究に勤しんでいる。
「青藍くんはまだ青い金魚を探しているのかい?」
「そうですね。青藍は名前にもある青色が好きなんです」
蒼月くんは嬉しそうに言う。
キミの名前にもアオはあるじゃないか…とは言わなかった。
「青い金魚が生まれたら教えてくださいね」
「青い金魚が生まれたら、青藍くんと一緒に見においで」
蒼月くんは子どものような笑顔で頷いた。
蒼月くんは今はもうないあの水族館の設計の資料を持って帰った。彼の作った水族館がオープンする時は連絡をもらった。
彼の水族館には金魚のいる球形の水槽がある。
あの時の金魚鉢型の水槽をヒントにしたのだという。
「ここに青い金魚が泳ぐ日を待っています」

彼らの望む、僕の理想の青い金魚が生まれるのは、もう少し先のようだ。
光を受けた体が鈍く青く輝く金魚を、僕は今日も眺めている。