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珪化木

青藍がイギリスに来て1年が経過した頃、青藍と再びキャッチボールができるようになって、僕はとても嬉しかった。それが10分足らずのものだとしても、真剣な顔でキャッチボールをする青藍を見るのが楽しかった。
以前も少しだけキャッチボールができていた頃があった。随分前のようにも思えるがまだ2年も経っていない。
正直あの頃の青藍の方がまだ安心できた。今は少し暑過ぎたり、少し時間をオーバーしたりすると、その後青藍はぐったりと寝込んでしまうから、僕はかなり慎重になっていた。
それでも夏の終わりの頃、天明先生が「少し遠出をしてみよう」と提案してきた。
本当は青藍も学校に入る年齢を過ぎている。体力がなく家で勉強をしている。来年には学校に通えるようにと最初は思っていたようだが、青藍が一度に起きていられる時間では学校生活は難しい。「おそらく学校に行くのはまだ当分先になるだろう」それが大人たちの見解だった。
キャッチボールや広い庭での散歩などをして少しずつ体力をつけようとはしているものの、それらに夢中になり過ぎると、その後気を失うかのように眠ってしまう。そして何より、ほとんど会話ができない。
言葉も理解しているし、文字も読み書きできる。ただ、声を出して話すということが彼にとってとても難しい作業のようだった。
「それは心的要因が大きい」と天明先生は言う。心の問題は薬では治らないとも言う。
春頃から言葉は出なくても、感情を表現できるようになってホッとしていたが、その後の変化はほとんど見られなかった。
「学習能力は並外れたものがある。血筋なのかね」
天明先生が話していた。
勉強の際のコミュニケーションは頷いたり首を振ったりのアクションと筆談とのことだった。
「日本語でも英語でも大丈夫」
天明先生は驚いていた。
そして、算数に関しての理解力がかなり優れていて、年齢以上のものをすでに学んでいるという。
「算数に関していえば、もうすぐ蒼月に追いつくよ」
「ホント?」
「本当だ。あっという間に抜かれてしまうかもよ」
それは嫌だ、と思った。だから、青藍が寝ている時間には僕も算数の勉強を進めていた。
「話さないことがハンディにならないかもしれない」と天明先生は言う。
「それでも僕は青藍と話がしたい」
「うん」
天明先生は僕の頭をポンと撫でた。
「私もだよ。また前のようにコロコロと笑う青藍に戻ってほしいよ」
そんな会話をして間もなくの天明先生の遠出の提案に、驚いたけれども僕はすごく期待をした。
「春に蒼月が行った恐竜博物館に行こう」
僕と青藍に天明先生は言った。
「やった!」
確かバスで2時間ぐらいだったと思う。
「私の車で、私と蒼月と青藍の3人で行こう」
青藍がイギリスに来てからは、僕もプライベートでの遠出は初めてだった。青藍を家に置いて遊びに行くなんて考えられなかった。
何日も前から青藍に恐竜博物館の話をした。青藍もあの時のアンモナイトの化石を持ち出し、僕の話を嬉しそうに聞いていた。
出掛ける前の日、青藍が少し熱を出した。
薬を飲んでベッドで眠る青藍を見て、翌日行けるかどうか不安だった。
「大丈夫。明日は行けるよ」
天明先生は言う。
「青藍も楽しみだからこそ熱が出たんだ。当日でなくてよかったよ」
「そうなの?」
「あぁ。だから今夜は蒼月も早く寝て明日に備えた方がいい」

青藍の熱は朝には下がっていた。朝食のポタージュスープも全部飲めた。僕が部屋に迎えに行くと、ノアを抱えて、肩からバッグをかけて準備万端といった感じだった。
「ノアも一緒かい?」
コクリと頷く。
「いいよ」
いつの間にか来ていた天明先生が言う。
「旅は道連れ、世は情け…って言うしね」
「なんです?それ」
「生きていく上で大事なもののことだよ。旅には仲間が必要だということさ」
「ヨワナサケって?」
「世の中を渡っていくつまり生きていくには、情け深く。情け深くっていうのは人に優しくするってことかな?でも、優しくすることは甘やかすことではないんだ。これが結構難しい」
「ふうん」
「そして人に優しくするばかりじゃなく、人に優しくしてもらうのも大事」
「ふうん」
天明先生は僕を見るとフッと笑った。
「どこかに行くことだけが旅じゃない。毎日を生きるのも仲間が必要。ひとりぼっちでは生きていきないってことさ。おいで、青藍」
青藍がトコトコとやってくる。
「大丈夫。僕には青藍がいるからひとりじゃない」
「そうだな」
天明先生は青藍を抱き上げた。
「青藍、おまえもひとりじゃない。蒼月がそばにいるし、ここから出たら他にも仲間を見つけられるよ」
青藍は目を丸くして、天明先生を見た。

ノアを連れて行くのは正解だった。
青藍の体とシートベルトの間でクッションの役目をした。
小さく薄い青藍の身体に車のシートベルトが合わなかった。
座席の背もたれと青藍の背中の間にも天明先生が積んでいたクッションを挟んだ。
僕と青藍は後部座席に座った。
天明先生の車は時々見かけるけれども乗ったのは初めてだった。
天明先生は車の中で、誰かが「オパールになった木」についての説明をしている。英語での話。ところどころにわからない言葉が出てくる。それを天明先生に訊きながら、その説明を聞いていた。
「つまり木の化石が宝石になっちゃうってこと?木の化石って石炭じゃないの?」
「石炭が木の化石だとよく知っているな」
「それくらいは知ってるよ」
青藍は隣で眠っている。
「化石になるときに水分が抜けて炭素の塊になったものが石炭。ケイ素が多いものが珪化木。石炭になると元の木の細胞はなくなってしまうけど珪化木には木の細胞が残っている」
「ケイ素ってあんまり聞かない」
「そうだな。ガラスだと思ってもらっていいよ」
「ガラス?」
「ケイ素の純度が高いものは水晶と呼ばれているね」
僕は透明な水晶を思い浮かべる。
「炭素もケイ素も、植物が水と共に吸い上げたものだったり、地中に埋まっている間にその中に取り込まれて圧縮される。木が埋まっている土壌環境で何になるかが決まる」
イギリスは石炭が多く取れていたという。ここには大昔どんな森が存在していたのだろう。
「さっきの話だと、ものすごい長い時間じっと埋まっていないとオパールにならないんでしょ?」
「そう。地震の少ないところじゃないと無理だね」
「ここもあんまり地震はないよね」
「そうだな」
ミラーに映る天明先生がにやりと笑ったような気がした。
「これから行く博物館の近くの海岸は白亜紀の地層もあって、珪化木が見られるかもしれない」
「あ、さっき言ってたよね。白亜紀前期って」
思わず身を乗り出す。
「もっとも、さっきの話はオーストラリアだけどね」
天明先生はそう言うと笑い出した。きっと天明先生には僕の考えていることが丸わかりなんだろう。青藍にキレイな石を見つけてあげたい、そう思っていた。

博物館が近くなった頃、青藍が目を覚ました。
水筒に入れて持ってきた少し甘いお茶を飲ませる。
「もうすぐだから、寝ちゃダメだぞ」天明先生が言った。
博物館の駐車場は休日だというのにあまり混んでいなかった。
「平日の方が学校の見学などもあって混むんだよ。海もそろそろシーズンオフだし」
そうかもしれない。でも、混んでない方が青藍にはいいかもしれない。
「疲れたら抱いてあげるから。それまでは歩けるな」
車から降りる時、天明先生が青藍に言った。青藍はノアを抱いて頷いた。
手を繋ぐためにノアは天明先生が持つことになった。青藍の手を僕と天明先生がそれぞれ繋ぐ。青藍は繋がれた手と、天明先生の持つノアを交互に見ては落ち着かない。それでも博物館の中に入ると展示物に目を丸くしては夢中になった。
復元された恐竜が怖いのか僕の影に隠れる。
中世代の海にいたと思われる生き物の化石が圧倒的に多い中、植物や昆虫の姿がそのまま残っている化石もある。
春も同じものを見たはずなのに、青藍に説明を読んでは日本語でも説明しながらゆっくりと見て歩くにはとても楽しかった。
青藍の足がもたつくと天明先生が抱き上げる。
青藍はノアを抱いて少し眠そうな顔をするが、眠ることはない。
気になる展示物を見つけると「見たい」と意思表示をする。
青藍がコツコツと展示ケースのガラスを突いた。
珪化木が中にあった。
にっこり笑ってこっちを見る。
「青藍、さっき車の中で話していたの、聞いてたの?」
驚いて訊くとコクンと頷いた。
天明先生がそっと青藍の頭を撫でる。だけど、少しだけその顔が心配そうだったのが気になった。
珪化木はぱっと見は黒っぽい木だった。年輪の模様がすっかりわかる。
隣には所々が赤く光るものもあった。
「不思議だね」
そう言うと青藍が頷いた。
石炭もかつては木だったとは思えない硬さと重さがあるけど、これはどうなんだろう?
「やぁ、また来てくれたんだね」
聞いたことのある声が後ろでした。
「館長さん」
思わず声が大きくなった。
青藍がパッと天明先生に縋り付く。
「おっと、驚かしてしまったね。弟くんかい?」
「あ、そう。弟の青藍です」
館長は目を細めて青藍を見る。青藍はギュッと天明先生の足にしがみつく。
「今日はお父さんも一緒なんだね」
なんと説明してよいのだろう?と思っていたら、天明先生が「私はこの子の主治医です」と館長に言った。
館長は黙って頷いた。
「珪化木に注目するとは、なかなかいい趣味をしている」
館長が僕の目線に合わせてしゃがむと、一緒にガラスケースを覗き込んだ。
「木に見えるけど、石なんですよね」
「持ってみるかい?」
「いいんですか?」
「こいつはダメだけど、こっちにあるのだったら触ってもいい。ついといで」
館長はそう言って奥の小部屋に向かって歩き出した。
「特別だよ」
ドアの前で下手なウインクをした。
「さぁ、キミも中にお入り」
天明先生に抱かれてついてきた青藍に言う。
「ここでは発掘されたものを整理したり、きれいにしたりする。今日は担当が休みでね。私が作業をしていたんだよ」
「館長さんが?」
「館長は何でも屋だ。もっとも好きなことをしているのだから全然苦ではない」
そう言いながら館長は小さな紙の箱を壁の棚の引き出しから取り出した。
「すぐそこの海岸で見つかったものだ」
蓋を開けると僕の手のひらよりも一回り小さな珪化木があった。展示されているものより少し白っぽいけど、年輪の模様は展示されているものよりはっきりと縞になっている。
「ふたりともここにお座り」
机に並んで置かれた四角い椅子に僕と青藍は座った。
「さぁさ、お兄ちゃん。机の上に手を出して」
僕は言われるままに両手を出した。
館長はそっと僕の掌の上に珪化木を置いた。ひんやりとしながらもどこか乾いた感触があった。
「持ち上げてごらん」
「あ、重い。石みたい」
「今は石だからな」
館長は目を細める。
「館長さん、青藍にも持たせてあげて」
うん、うん、と館長は頷く。
「ほら、キミも手を出して」
青藍は僕と天明先生の顔を何度も見る。
「ノアは私が持っているよ」
天明先生が青藍からノアを受け取る。
青藍は僕を真似るようにして、机の上に手を乗せた。
「可愛い手だ」
子どもにしたら骨の目立つ手の上に、僕の手から取った珪化木をそっと乗せた。
「握って、持ち上げてみな」
と僕が言うと、青藍はそっと両手で握って持ち上げた。
「あ」
と声は出ないまでも口が開いた。
「重いでしょ?」
青藍を覗き込むようにして声をかけるとコクコクと頷いた。
「もう、すっかり石だね」
「一億年以上前のものだからな」
僕はつい最近10歳になった。そんな僕には一億年なんて全く想像がつかない。
青藍は両手でそっと珪化木を持ち上げると、それに耳を近付けた。
「何か聞こえるかい?」
館長が言う。
青藍がコクリと頷いた。
「何か言ってるかい?」
青藍はもう一度珪化木に耳を近付けた。
「Hello, Seiran 」
小さな声だったけど、青藍が言った。
僕も天明先生も驚いた。館長はにっこりと笑った。
「きみも挨拶しないといけないな」
青藍はじっと手の上の珪化木を見て「Hello」と言った。
「天明先生。青藍が」
天明先生は館長の手を取り「この子は2年近く何も言わなかったんです。ありがとうございます」と言った。
「言葉を一億年前から取り戻したんだね。よかったよ」
館長が笑った。
「きみにそれをあげよう」
館長が青藍に言った。青藍はふるふると首を振って、館長に珪化木を差し出した。
「これはね、実は上と下で割れてしまっていて展示できないんだ」
館長がもうひとつの箱を取り出した。
蓋を開けるとよく似た年輪模様の珪化木が入っていた。
「貸してごらん」
青藍の手の上の珪化木に箱の中の珪化木をひっくり返して合わせると、ぴったりと合って、ひとつの石になった。
「拾い上げた時にはすでにふたつに分かれていたんだよ」
そう言うと青藍に片方を戻し、僕にもその片割れを差し出した。
「大昔からの知恵とパワーが眠る石だ。ふたりを守ってくれるよ」
館長はそう言ってそれぞれを綿で包み箱にしまい、改めて僕らふたりに手渡した。
「そうそう、これも」
館長はポケットからバタースカッチキャンディを取り出すと箱の上にそっと置いた。
「Thank you, Curator」
僕と青藍の声が重なった。
「どういたしまして。これは4人だけの秘密だよ」
館長が僕と青藍の頭をその大きな手で撫でた。

楽しく博物館の中は見学できた。本当は大昔の地層のある海岸にも行きたかったが、青藍の体力はそれを許さなかった。
帰りの車の中から、青藍は熱を出してしまった。
次の日もほとんど眠ったままだった。
ベッドサイドのテーブルにふたりでもらった珪化木の入った箱とバタースカッチキャンディを置いた。
このまま、また何も言わなくなってしまうのではないか?何も食べられないままになってしまうのではないか?僕はずっと不安だった。
眠ったままの青藍の顔を見てから学校へ行き、急いで帰ってきた。
いつも通り、十分に手を洗い、服を着替え、青藍の部屋に向かう。
ドアをノックして、そっと開く。
入口からよく見えるところにベッドがあるのは青藍の部屋だけだった。
青藍は眠っているようだった。
僕はそっと頬に触れ名前を呼んだ。
昨日は熱があって苦しそうだったが、今は熱が下がったようで、僅かに開いている口から規則正しく呼吸音が聞こえる。
「青藍」
もう一度名前を呼ぶ。
かさり、と音がした。
青藍の手が僕の手に触れた。熱がない時は少し冷たい青藍の手だ。
見るとその手にバタースカッチキャンディが握られていた。
「おにいちゃん」
小さな声がした。
青藍の大きな目が僕を見ている。
「キャンディ、たべよ、いっしょに」
そう言って、握っていた手を開く。
「まってた」青藍が言う。
「僕も待ってたよ」そう言うと、僕は青藍をギュッと抱きしめた。

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の続き

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20220926修正