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三日月ビルヂング

三日月ビルヂングの話をしよう。
僕の街にある三日月ビルヂングは風変わりな建物で、まずは表と裏で階数が違う。
斜面に立っているから仕方がないのかもしれないけど、表通りから見ると4階建で裏通りから入る側は5階建になっている。
三日月ビルヂングの名前はビルを建てた「三日月玄円」からだが、その月にあやかってか、表通りに面している側は「上弦入口」裏は「下弦入口」となっている。
ビルはかなり古い建物だが、数年前、今のオーナーになった際に大改修がなされた。今のオーナーは三日月玄円の孫という話だが、オーナーが誰かというのは建物の奇妙さにはあまり関係ないと思っているから割愛させてもらう。まぁ、見た目は以前とさほど変わらないが耐震、防災の規定に沿った建物になったらしい。そうでもしないと取り壊されるんだろう?取り壊してしまうにはちょっともったいない建物だと思う。
外壁は乳白色だけど、天気だったり、季節だったり、陽の光の角度だったりでかなり色合いの印象が変わる不思議な壁だ。
昔のことはよくわからないが、改装後は上弦入口側の1階はセレクトショップと漢方専門の薬局が入っている。この漢方専門の薬局というのは昔から三日月ビルヂングの同じ場所にあったと聞いたことがある。すらりとした背の高い、目が大きく鼻筋も通り笑うと白い歯が眩しい…という絵に描いたような二枚目の薬剤師がいるというが、生憎、漢方薬に世話になることがないので入ったことはない。
隣のセレクトショップは「凪」という名の店で、服や雑貨、そして画集や写真集などの本もある。店主は人の良さそうな雰囲気の細身の男性。数名の店員もいるが積極的に話しかけてくることはないが、こちらの気配を敏感に感じて、探し物をしていると声をかけてくれる。店主も店員も感じがいいし、商品のセレクトもとてもいい。
セレクトショップ側に2階に通じる階段がある。2階にはカフェダイニングと心療内科のクリニック、そして探偵事務所が入っている。そして2階に上がることでようやく三日月ビルヂングが円柱状で中庭を持つ建物だということがわかる。
完璧な円ではない。少し歪んだ形をしている。
1階は中庭に面している部分も壁だが、2階は中庭に面している内側に廊下というか通路がある。その通路から中庭を見ることができる。
手入れがされているような野放図のような不思議な庭だった。よくわからないあまり大きくない木のそばに小さな小屋みたいなものがあるだけで、花々が好き勝手に咲いている。通路から下弦側を見ると上弦側と同じ4階建てであるのもトリッキーな感じがする。
カフェダイニングは評判がいい。「slight」という店で、昼と夜とで客層の変わる店だった。昼は圧倒的に女性のグループ客だったし、夜はひとりでくる客、どちらかというと男性が多かった。昼と夜はメニューも変わるし、店のスタッフも全く別な印象の人に変わった。
仕事の関係で昼も夜も「slight」に行ったことがあるが、同じ店と思えないほど雰囲気が違った。店を経営しているのは男性で、初めは神経質そうな印象を受けるが話すとジョークも通じる紳士だった。昼に店にいることが多く、女性客からも人気だと聞いた。
心療内科クリニック「ネムクリニック」は、1階の漢方薬局同様世話になったことがない。女医さんだという。しかも美人という話だった。健康が取り柄な自分が少し恨めしく思えてしまう。
そして探偵事務所。こちらも世話になることはおそらく今後もないだろう。ただやはり評判が頗るいい。逃げたペット探しから、信用調査。少しヤバい仕事でもなんでも引き受けて結果をキチンと出してくれるという。探偵はふたり。しかし、いつも事務所にいない。それほど彼らは忙しい。どうやって依頼を受けているのかはわからないが、自分の住んでいる街の探偵が忙しいというのは少し問題かもしれない。
下弦側に1階と2階は小さな水族館になっている。入り口の前には20台ほど車が停められる駐車場がある。20台…水族館の規模的にそれが妥当かどうかはわからない。
年間パスポートを持つ者だけが入れる水族館で、そのパスポートは何故か上弦側にある漢方薬局で取り扱っている。初年度は1500円。更新は500円。たとえ間が空いてもパスポートカードを持って更新すれば500円で1年間好きな時に入ることができる。もちろん、パスポートは持っている。三日月ビルヂングに来る一番の目的はこの水族館だと言ってもいい。
水族館の中に入るとわかるが、水族館自体はフロアはひとつ。館内の作りから上弦側の1階と同じフロアのみ公開されているのだろう。
魚の種類はあまり多くはない。
入り口付近にある熱帯魚の入っている柱のような大きな水槽。
金魚の入った球状の水槽。
海月が漂う水槽は海月の種類毎に4つに区切られている。
そして、オウムガイの浮かぶ水槽。
それだけだった。
それらの水槽がある部屋はそれぞれ区切られ、そしてゆっくり座って見られるようにと、様々な椅子が置かれていた。
下弦側の3階は上弦側の2階と繋がっている。だが、下弦側から3階へ行く手段はない。下弦は水族館だけなのである。逆に上弦側から直接水族館に入れる手段もなかった。
そう思うとひどく不便で、無駄な建物ともいえなくない。
上のふたつのフロアはオーナーの自宅らしいが、一見するとそのフロアに行く手段がない。上弦側にある階段は2階で終わっている。
郵便物などはどうしているのか?
階段を登ると時計回りにカフェダイニング、クリニック、探偵事務所がある。クリニックと探偵事務所の間に目立たないドアがある。表札も何もないドアで、壁色と同化している。(外壁に似た色かもしれないが、やはり正しい色がよくわからない)そのドアが管理人室のドアだった。
そこにいる人がオーナーなのかあくまでも管理人なのかわからない。
ドアをノックすると、小柄な今ひとつ年齢不詳の男性が現れる。猫の眼のような印象を受ける目が、こちらを見上げると少しドキリとする。
ビルに関する取材を申し込んだ時「とりあえずお話はお聞きします」と、「回答は後日でいいですか?」と話の後に言った声が少ししゃがれた野良猫のようにも思えるとにかく不思議な感じの人だった。

「不思議な管理人のいる不思議なビル、ってことでいい?」
「そんな安っぽいとこじゃないんだけどね」

街のラウンドマークはもっとある。
新しい施設や建物もある。
けど、もしも街に来ることがあったら、三日月ビルヂングを見てほしい。
僕もまだ、全てを見てはいないけど、三日月ビルヂングの不思議な感じは、そのまま街の雰囲気に似ている感じが僕はするんだ。