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人体標本

彼はじっとそれを見ていた。
大きな瞳が瞬きもせず魅入っている。
ケースに収められ、展示されているそれは人体標本だった。
それも「血管」の標本。赤色と青色の血管が人の形を作っていた。
彼はじっと食い入るようにそれを見ている。
その血管の持ち主を知っているかのように。その血管の中から何かを探し出そうとしているかのように。

研究会の空き時間、近くの美術館で人体標本の特別展をやっていると、仲間に言われやってきた。
見知らぬ土地の見知らぬ美術館。
平日だというのに多くの人が訪れていた。
専門はコンピュータサイエンス/計算物理だが、生物に興味がないわけではない。展示室に入った途端、独特の薬品の匂いと、そして奇妙なほど明るい照明が彼を包んだ。
子どもを連れた人、老人、自分たちのような学生、そして、人の身体やそれに近いものたちを研究しているであろう人々。男も女も様々な人が展示された標本を見ている。小声で何かを話し合う者、食い入るように見つめる者、そそくさと通り過ぎる者。
彼は説明をひとつひとつゆっくり読みながら、人体標本を見る。
理科室で見かける骨格標本から始まり、筋肉の標本、妊娠中の子宮の中、そして胎児。
薬品の匂いに負けそうになりながらも、歩みを進めていたが、胎児を前に蹲りそうになったのをぐっと堪えた。
『コレハナニ・・・コレハナニ・・・』
自分の存在が揺らぐ。
自分の輪郭がぶれ、空間に溶けていくような気がした。自分が解けてしまうような気がした。
母の胎内にいた時と同じように丸く蹲れば、自分の存在を残すことができるだろうか?
「どうした?大丈夫か?」
いつの間にか隣にいた友人が肩に手をかけ声をかける。
「顔、青いぞ」
「・・・匂いに負けたかも」
「あぁ・・・」
友人も顔を顰める。
「向こうの部屋は紙の資料展示だから少しいいかも。座るところもあるようだから向こうへ行こうぜ」
隣の小部屋の壁には「献体」についての説明があった。
彼は椅子に座り、文字を読むふりをしながらぼんやりとしていた。
友人は壁にくっつくように文字を読んでいる。
他の仲間はどうしただろう。

死んだ母を思い出す。
自分を見て、にっこり笑ったかと思ったら、そのまま後ろ向きに手摺りを越えて落ちていった母の姿を思い出す。
何が起きたかわからなかった。
彼はまだ3歳だった。
母が落ちた瞬間、離れたところにいた親戚たちが大きな声を上げた。
彼が母のいた場所まで辿り着く前に誰かが彼を後ろからギュッと押さえ込んだ。
彼が生まれる前から彼の母の心は少しずつ壊れていたのだという話を聞いたのは、彼が10歳の時だった。
沢山の親戚が集まっていた。
初めて会う親戚もいた。
母親の葬式には彼は出ていなかった。
家に戻る途中から熱を出し、その後何日も熱が下がらず、母親の葬式の日にも彼はお気に入りのぬいぐるみに囲まれて眠っていた。
その日も誰かの葬式だったのかもしれない。
彼は以前より母の父親である祖父の家に住んでいた。母がいなくなっても祖父と、そして、彼より2歳年上の従兄と暮らしていた。
祖父が裕福だったため、身の回りの世話をしてくれる人もいて不自由は感じていなかったし、祖父も従兄も彼にはとても優しかった。
そのせいもあったかもしれない。
集まった親戚の目が怖かった。
厳しい目というより好奇の目が向けられる。
「あの子がそうなの?」誰かが言った。
「蒼月と似ているから兄弟かと思ったよ」蒼月とは二歳上の従兄のことだ。
「跡取りは蒼月なんでしょ?」
「まぁな」
「じゃあ、あの子は要らないじゃない」
「大事な末娘の忘れ形見だ」
「あの子ができたからあんなことになったんでしょ?」
「それは結果論だ」
「まぁ、あんな風になってしまうくらいだったら、最初から堕してしまってたらよかったんだよ」
「聞こえているよ」
「どうせ、意味わからなさ」
「お祖父様」
蒼月が静かに、だけど周囲の喧騒を打ち消す声で言った。
「僕たちはもういいですよね」
「そうだな。あとは私がしておくよ」
大人たちは自分たちのミスに気がついた。
怒らせてはならない者の逆鱗に触れたことにようやく気づいた。
それ以来、彼は、祖父と従兄以外の親戚と会っていない。
従兄に連れられて彼は自分の部屋に戻った。
「僕もお祖父様もおまえがいてくれて本当によかったと思っている。そのことは絶対に忘れちゃダメだからな」
彼が眠るまで、ずっと彼の従兄はそばにいた。

「大丈夫か?」
「もう大丈夫」
心配そうに覗き込んだ友人にそう答えると彼は立ち上がった。
そして次の部屋へ向かった。
人体標本といっても実に様々なものがある。
何を見たいか?骨なのか、筋肉なのか、病巣なのか。
脳だけ。眼球だけ。内臓だったり、心臓だったり。
精神/気に宿るタマシイを「魂」といい、肉体に宿るタマシイを「魄」という。死によって人間の中にあった「魂」は離れ、空に、天に向かって行くという。「魂」は思いであり思いの消えた人間は単なる肉塊となる。でもそこにはまだ「魄」があるではないか?その「魄」を肉体と共に土に還すために埋葬する。
目の前にある標本となった肉体にもタマシイがあるのかもしれない。
「本当に?」
彼は血管標本の前に立った。
赤色と青色の血管が人の形を成している。血管以外のものは溶かされたのだと解説にある。
肉体から現れた血管を人の形にしたのだろうか?それとも人の形を成したまま血管が現れたのだろうか?
そしてこの血管にはまだタマシイはあるのだろうか?
土に還ることのない溶けてしまったタマシイはいったいどこにいるのだろう?

父のことは今でもわからない。
おそらく祖父に訊けば、今なら答えてくれるだろう。
でも訊く必要はない。
父親が誰であろうと、自分は今ここのこうして存在している。
でも、どうして自分はいるのだろう?
自分のタマシイの源は母親の心だったのだと思う。母の正気を吸い取って自分はこの世に誕生した、と。
自分はいつから自分なのだろう?
魂と魄が結びついたから受精卵は細胞分裂を始め生物となるのだろうか?それとも細胞分裂を繰り返す中で魂魄が宿るのだろうか?
自分はここにいる価値があるのだろうか?
骨の集まり、肉の集まり、血管の集まり。自分を自分たるものにしているのは、肉体なのかタマシイなのか?

「おい」
友人に声をかけられハッとする。
「随分と魅入っているな」
「すごいなと思って」
「確かに」
彼は同じゼミではない。たまたま、教授の授業の単位の補填で今回の研究会の手伝いをしている。学部も全く違う。
「こういうのを作れる時点でいかれているよな。亡くなったいるとはいえ人を溶かすのだから」
そう言うと友人は顔を顰めた。
「行こうぜ」
一緒に来たメンバーのほとんどは、見終えてロビーで屯していた。
もともと色白の彼だが、顔色は蒼白に近い。
彼の顔を見ると、ロビーにいた仲間の誰もが「大丈夫か?」と訊ね、椅子に座ることを勧めた。

ホテルへ向かうバスの中で、仲間は展示物に話をしたり、明日の研究会の後半の話をしていた。
窓際の席を勧めた友人が「着いたら起こすから寝てな」と言うので彼は目を閉じていた。
「肉体はいろんな形で見ることはできても、魂は見ることできないんだよな」
と誰かが話している。
本当に?と彼は思う。
人体標本に残るタマシイを感じたような気がした。
あそこにいたのは、ただ名前を知ることのない、どこかの誰かであったような気がする。
ジロジロと見過ぎただろうか?失礼なことをしたなと、ぼんやりと半分寝ている頭で彼は思った。
鼻の奥には室内に漂っていた薬品の匂いがまだ残っていた。

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「ふたりのはなし」学生時代。
のちの教授になる彼の話。