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入口4

美術手帖 10.16-20 の記事がすごく面白かった。バンクシー作品をめぐってストリート・アートについて書かれているのだけど、これは巡り巡って Note のコンセプトの一部分にも関わってくるように思う。

読んでいてまず思い浮かんだのは、Hezog & de Meuron が設計したあるアパートメントの外壁。場所を覚えてなくてここに画像が出せないのがくやしい。その建物が面する通りは品が良いとはとても言えず、いたるところにスプレーの落書きがされていた。ところが H&deM はそれらを精密に写し取り、かれらが設計中だった建物の敷地の外周に、壁面レリーフとして再現した。フレームが変れば意味も価値も変って見える。「落書き」が「アート」に変換されたのだ。

身近なことを言えば、3年ぐらい前、角地に立つわが家は、曲りそこねた車が木格子の塀の角をちょっとずつ傷めてくれて、とうとう壊れてしまった。それで大工さんにそこだけ新しく作ってくれと頼んでおいたのが、なかなか出来てこない。仮付けのベニヤ板がなんともみすぼらしい。幅2m余りの狭い路地だけれど、歩く人の目にはつく。それで、向かいの家のチビっ子姉弟にクレヨンを渡し、このベニヤ板に好きな絵を描いてよと頼んだところ、ほんの10分かそこらで原始絵画風味の「バンクシー」が出現した。以来、ご近所の今まで話したこともなかった皆さんから次々に称賛の声。嬉しかった。自分の車も傷んだにちがいない皆さんにも感謝。今は塀の修復が完成してしまったので少し離れた場所に移動した。風雨に晒されて、いい味といえないこともないが、絵画修復も検討中だ。もちろん原作者たちに依頼するつもりだ。学校の美術室よりも、よそんちの壁の方が、圧倒的にパワーが解放されるんじゃないだろうか。

音楽の方でいうと、以前ヨーロッパを放浪した時、強く印象付けられたのは、都市のいたるところ、ストリートが音楽やダンスに解放されていたことだ。とくにクラクフのある広場で、小学校に入ったか入らないかくらいの女の子が、小さなハープを膝にのせて、民謡のようなメロディを歌っていた。すばらしかった。一曲終ったところで、ちょっとだけ話しかけてみた。「名前は?」「ドブロニカよ」「素敵な歌だったよ。ハープは誰に教わったの?」「お母さん」「上手だね」「お母さんもういないの」「そうか。。。でも、きっとどっかにいるよ」「いま、ちがう人がおうちにいる」「じゃ、僕がほんとうのお母さんを探してやる」「うれしい!」...とかいう空想上の会話をしてしまうくらい、感動的な演奏だった。財布の中のコインを全部、缶に入れてきた。これでお母さんを探してね。

アートだけじゃない。学問だって最初はストリート上の知のパフォーマンスだったらしい*。パフォーマーたちが次第に集団をつくり、組織化し、やがて大学となり、かつての知の芸人が教授などという称号を付けるようになる。だけど、原初のバンクシー的な、ドブロニカ的な、ストリート魂を忘れちゃいけない。

忘れさせないための「設計」が必要になる。Note は今までになかったストリートをWeb上に開いた。その一番重要な部分が、僕は「サポート」だろうと思っている。これはクラクフの広場に通じている。ドブロニカは自分からギャラを設定して演奏してはいない。聴いた僕がコインを入れずにはおれなかっただけだ。ストリート文化が、制度化=商業化とはちがったやりかたで洗練可能なことを、H&deM と幼いハープ奏者から教えてもらった。バンクシー、もし読んでくれてたら君の意見も聞かせてよ。

* 岩城和哉『知の空間』1996 丸善出版

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写真:青森県立美術館、たぶん7つぐらいある入口の一つ。青木淳設計。

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