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スクールバス

スクールバスが渋滞に巻き込まれる。
割とよくあることだ。
同じコースのバスに乗っていても、決して親しくはない連中が渋滞でブーブー文句を言い出すのを聞くのも嫌だし、それに対して眉を顰めている見知った顔を見るのもうんざりで、僕は決まって目を閉じている。
授業中は電源をオフにしていないと怒られるスマホもバスの中ではどうぞご自由に。正しくは「通話はお控えください」なのだけど、周りの騒音で通話をする方が難しい。通話をしなくてもみんな片手にはスマホがある。
僕は制服のポケットに入れている。
同じくポケットに入れているイヤホンをつけると目を閉じる。音楽を聴いているふりだけで、実際は何も聞こえない。
スクールバスの中ではコードレスはよろしくない。
急ブレーキでイヤホンを失くして騒いでいるのを見たのは一度や二度ではない。
決して大きくはない「大橋」の手前から道路が混雑するのはいつものことで、そこではみんなもバスが進まなくてもあまり騒がない。
でもたまに、学校を出てひとつ目の角を曲がった時からバスが進まなくなることがある。
工事だったり、事故だったり、最後まで原因がわからない渋滞も割とよくある。
渋滞の原因には霧もある。この町は濃い霧に包まれることが多い町だ。
そんなよくあることなのに騒ぐ者たちの気持ちが僕にはわからない。

運転席のすぐ後ろの席に座ることができたらラッキーだ。路線バス用の車両をそのままスクールバスとして使っている。出入り口付近の座席はひとり掛けだった。誰とも顔を合わせる必要もなく、外を眺めていられるのだったら、どんなに渋滞だろうがかまわない。むしろ渋滞を歓迎してもいい。
その席と通路を挟んで隣の席、この一番前のふたつの席の脇には吊り革もなく、混んでいても立つ者は少ない。ただドアに近い方だと、何故か降りる際にチラリと顔を覗かれることがあった。その点、運転席のすぐ後ろの席だと誰も目の前を通ることはない。

バスのルートの最後で降りる。
渋滞は大抵大橋の手前から橋を渡って国道を外れるまでの距離にすると2km程度。そこを30分も掛けて行くことも少なくない。
大橋を渡って、ひとつ目の交差点を過ぎたところで最初の停留ポイントがある。そこを過ぎてからふたつ目の停留ポイントまで、渋滞がなければ5分とかからない。それが20分近くもかかるとなると、ひとつ目の停留ポイントで降りた方が良かったとボヤく声にも頷ける。
ただそういう声は少数だ。
大概は「ちっとも進んでねぇぞ」から始まり「腹減った」「暑い」と言ったところでどうしようもないことばかりをぼやいている。
数年前にとある事故が起きて以来、学校はスクールバスの利用を勧めた。
「なるべく公共交通機関を使わないようにしてほしい」
徒歩通学の難しい者は、スクールバスか家族の送り迎えで学校に通っている。
道路としては帰りの方が渋滞するが、バスの中は朝の方が混雑する。
朝はスクールバスを利用するが帰りは家族に迎えに来てもらうという者が多いからである。
遅くまで部活をしているとスクールバスの時刻に間に合わないというのもあるが、朝、スクールバスに乗っての遅刻は遅刻にならないという利点のために、朝はスクールバスに乗るという者たちが多いというのが本当のところだった。

スクールバスの出発点から乗る僕は、朝は絶対的特等席である運転席の真後ろに座る。
バスに乗り込む際も前の乗車口しか開かない。
「おはようございます」と言って乗り込むと、すっかり顔を覚えた運転手が「おはようございます」とこちらを見てニコリと笑う。
ルート交換でもあるのか、休みの関係かわからないが、3人の運転手のローテーションだった。いずれの運転手も40代くらいの穏やかな雰囲気の人だった。
他のコースの運転手には、気の短い人や、無愛想な人もいるようだけど、僕の乗るバスにはそういう人はいなかった。
朝のバスが到着予定時刻に遅れそうな時は車内放送で遅れる旨を伝えられる。
バスと学校とを直結する何かがあるらしく、停留ポイント(朝は乗車ポイントと呼ばれる)にいる者たちに学校からメールが届くらしい。
最初から乗る僕はそのメールを受けたことがない。
帰りは渋滞していても何の放送もない。
乗っている生徒たちが勝手に誰かに「渋滞にはまっててさぁ」と連絡している。
その連絡が終わったあたりから、バスの中は静かになる。
しんとするわけではない。
不必要に渋滞に文句を言う者がなくなるだけだ。
友人同士の会話をしたり、スマホをいじったり、中には眠っている者もいる。
ふたつ目の停留ポイントを過ぎるとバスの中はそれまでの半分くらいの人数になる。
そこからまた渋滞することがあっても、もう誰も騒がない。
逆に「どうやら事故のようですね」とか、「霧で視界が悪いのでスピードを落としたまま行きます」などと運転手さんがアナウンスしてくる。

停留ポイントは全部で7つ。
朝、一緒に乗り込むのは3人だけど、降りるのは大抵僕ひとりだった。
降りる時に「ありがとうございます」と挨拶をすれば、どの運転手も「お疲れ様でした。気をつけて帰ってくださいね」と応えてくれる。
「運転手さんも気をつけてください。今日は本当にひどい霧ですよね」
「ありがとう」
運転手は被っていた帽子を少しだけ上げて笑顔を見せた。
最終ポイントは総合病院の前で、バスはそのまま病院内のロータリーを回って帰って行く。
バスの前の目的表示の電光板が「スクールバス」から「回送車」に変わるのを見て僕は歩き始める。
霧が深い。
家に帰ったら制服を干さなくてはならないな、と思いながら歩き出す。
押しボタン式の横断歩道を渡ってすぐの病院社宅が僕の家だった。
横断歩道を渡り切った僕の脇をバスが行く。
先ほどより少し暗めの車内にひとりいる運転手を見上げた。
運転手は僕に気がついて白い手袋をしている手を上げた。
バスは通り過ぎる。
そして、あっという間にテールランプが霧に消えていった。