見出し画像

隣人(003)

Kさんはまた出張のようだ。
東ヨーロッパに近いうちに行くという話を聞いていたような気がする。
Kさんに会うのは、たいてい土曜日。
僕のバイト帰りと、Kさんが買い物やトレーニングから帰って来るのとが、たまたま一緒になった時。
僕はパン屋でバイトをしている。
早朝に店に行きパンを焼く。時折前の日の夜に仕込みも手伝うことがあるが、たいていは4時に店に行きパンを焼き、翌日の下準備をして11時に店を出る。日曜日は休み。パン屋の主人はクリスチャンで、日曜日は朝から礼拝に行く。
Kさんと毎週会うわけではないが2週続けて合わないということは、Kさんは出張に出ていると判断して間違いないこともこの半年でわかった。
引っ越してきて早々に1ヶ月の出張があったが、それ以降は1ヶ月という長期出張は今のところはないようだ。
あの時会った従兄という人物が、Kさんの家を訪れているのは見たことがない。
Kさんが出張だと思うと「元気でいるかな?」と少し心配になる。
Kさんからはあまり生活臭を感じない。
一度だけKさんの家の玄関先にお邪魔したことがあったが、人が住む家の気配を感じなかった。
知り合って半年が経つのに連絡先の交換もしていない。
でも、家が隣同士だから連絡先を交換することはないだろう。
アパートの隣の住人の名前もわからないは多々あるようだ。
ましてや戸建てのお隣さん。
「そういえば、Kさんの前の住人ってどんな人だったっけ?」
この家を紹介された時「もう随分空き家のままだから、大家さんに掛け合ってみましょうか?お家賃安くなるかもしれませんよ」と言われた。
事故物件とか気にはしないが、それでもそういう理由で空き家なのか?と少しだけ不安になった。
「そういうわけではないのですが。駐車場と離れていたりとか、ちょっと不便でしょ」
不動産屋のお姉さんはそう言って笑顔を見せた。
家を見に来た時、同じような家が二軒あって、今いる家と行き止まりにある家。
「こっちには人がいるんですか?」
行き止まりの家を指差した。
「え?あぁ。居ますね」
案内の男性社員がファイルをめくって答えた。
通りから入る路地。
家と家の間のあまり広くない少し曲がった路地。
自転車やバイクで通る分には十分だけど、通りに面している住宅を通り抜けるまでは外灯がない。それぞれの家の灯りが頼りというのもなぁ…などと思っていた。建物の後ろに庭があり、庭と自分が借りようとしている家との間は少し背の高い生垣で仕切られている。
よく見ると生垣に沿って奥に入れるようになっていてそこにも一件家があった。
「アトリエですね」
男性社員が言った。
誰のアトリエなのか。説明はなかった。
生垣に面しているこちらの家には窓がなく、後からわかったが寝室の収納で覗きようも覗かれようもない。
「さて」と中に入れば変形1LDKと呼ぶべきか2DKと呼ぶべきか少し悩む作りで、表側から見たらそれなりの年季の入った建物だが内側はリフォームされているようで新しい。
水回りも最新っぽいし、横長の建物の裏には広くはないが庭もある。庭の先は隣の家の生垣とその向こうの柿の木。そして突き当たり側の家との境界には物置が置かれていた。
「完全防音ですから窓さえ閉めていたら家の中の音も漏れませんし、外の音も聞こえません」
最大の決め手はそこだった。
ギターの練習をしたい自分にとって、完全防音は理想郷だった。
車は持っていないので駐車場が遠くても構わない(通りに面した場所にあった)。
家賃も本来の7割でよくて、敷金礼金も要らないという好条件だった。
すぐに決めて住み始めた。
だけど、行き止まりの家の住人にも、アトリエの持ち主にも会ったことはなかった。
会っていたらKさんのように話をする仲になっていただろうか?
行き止まりの住人が引っ越したのはおそらく自分が越してきて3ヶ月後。
よその不動産屋で見たハウスクリーニングとついた繋ぎを来たふたり組が入っていくのを見かけた。それから半年後にKさんが越してきた。
アトリエの主には会ったことがない。
でも時折郵便配達員が細い通路から出て来るのを見ることがある。
空き家ではないようだ。
「今度Kさんに会ったらLINE交換できるかな」
バイト先でもらったパンを齧りながらぼんやり考える。
Kさんにお裾分けした食パンは、少し配合が変わった。
前のより柔らかいと評判だけど、自分は少し耳の硬い前の方が好きだった。
「Kさんはどっちが好きって言うかなぁ」
何だかとてもKさんに会いたくなった。