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Gymnopédies

「音楽を流してもいいかな?」
黙々とキーを打ち続ける宵月に向かって森川が訊ねる。
「ええ」
宵月は柔和な笑顔を森川に向ける。学生の頃と全くといってもいいほど変わらない。いや…だいぶ自然な笑顔になったかもしれない、と森川は思った。
学生として会った頃は、何かのスイッチが入るかのように笑顔になる。「笑顔を作る」というのはこの子のためにある言葉ではないか?と思わずにはいられなかった。
宵月は帰国子女で、高校2年の頃日本に帰ってきた。就学前からほとんどをイギリスで過ごしてきたというのは、宵月が准教授になった頃に聞いた。大学の頃から森川の物理学研究室に所属して、院生を経て、教授になった現在も森川ラボ付きなのは、専門の物理学ではなく、多言語に精通しているために通訳としても忙しくしている現状を踏まえてのことだという。独自の研究を展開するほど時間がないというのは本人なのか、大学の見解なのか。宵月が大学に所属しているだけで「宣伝効果」は充分だった。
「普段は音楽は聴かないのか?」
「聞きますよ」
森川の問いに宵月はキーを叩く指を止めて答える。
宵月は森川の実験のシュミレーション予想の演算をしている。森川は机上の理論より実験で証明する派だが、実験の前にシュミレーションを行い、それを踏まえて実験を行う方が圧倒的に効率がいい。シュミレーションに近い結果が出たら理論に間違いはないのだが、実際の結果と大きく異なった場合、理論に欠陥があるのか?それとも実験に問題があったのかを追求しなくてはならない。
「ほぅ。どんな曲を聞くんだね」
宵月は首を傾げ、二度三度ゆっくりと瞬きをした。
「特にこれとは…演歌以外ならなんでも聞きます」
「演歌は聴かないのか?」
「重いですよね。歌詞だけでも重いのに、それに似合ったメロディに乗せちゃうからすごく重い」
森川は思わず声を立てて笑った。宵月は常にこちらの庇護欲をかきたたせると同時に嗜虐心とまではいかないが悪戯心をくすぐってくる。昔から教授受けしているのは、単に優秀なだけではないのだろう、森川は思っていた。
「いや、すまない。宵月くんは若いから、演歌とか興味がないと思ってたけど、一応聞いてダメだったんだ」
「まぁ、そうですね」
宵月は照れたような表情をした。
「やっぱり、歌詞のある曲はつい歌詞を聞き入ってしまうから、仕事の時は歌詞のない曲をかけるか、無音ですね」
「うんうん」と森川は頷く。
森川はMDのスイッチを入れた。森川はもう20年近くこの機械を使っている。初代はすぐに壊れたが、この機械は故障することなくずっと動いている。MDのほとんどは森川のレコードをダビング録音したものだった。
流れてきたのはサティのピアノ曲だった。
「こういうのは聞く?」
「えぇ。サティは好きです。雨の日とかぼんやりしたい時に聴きます」
「そう。コーヒー飲む?」
「あ、僕が淹れます」
「いいよ。私が淹れてくる。ちょっと休憩しよう」
そういうと森川は部屋を出て行った。
今日は朝からずっと雨が降っている。

思いのほか森川はすぐに戻ってきた。
ふたつのマグからは温かい湯気とコーヒーの香り。
「菅山くんがちょうどコーヒーを淹れていたんだ」
菅山は森川の助手である。
森川のマグカップは森川自身の手作りで、少しだけ歪んでいるがそれは「わざとデザインした」ものらしい。宵月のマグカップは深い青色をしている。知り合いの作家の手作りだが、形は歪んではいない。
「グノシエンヌ」
サティの曲の中でも有名な曲が流れ出す。
「クレタ島にあった古都クノーシスからつけた名前となっているけど、クレタ島は行ったことがあるのかい?」
「小さい頃でよく覚えてないのですが二度ほど行きました」
「ギリシャには住まなかったのかい?」
「そうですね。ほとんどをイギリスで。あとほとんどドイツのオランダにも住んでいた時期はありますが、あとはせいぜい滞在したという感じですかね」
「ほとんどドイツというのは?」
「買い物とかはドイツに行くんです。国境近くの小さな町だったので、ドイツに出た方がいろいろ買えたんです」
「地続きっていいね」
「確かに便利ですよね」
森川と宵月はもう10年近くの付き合いになる。それなのに森川は宵月のプライベートをほとんど知らない。それは宵月も同じことだが、宵月が研究に関係のないことをラボ内で言うことはまずなかった。
「サティで一番メジャーなのはジムノペディになるのかな?」
急に話が変わった。森川は普段からこういうことはよくある。
流れている曲はグノシエンヌの4番と呼ばれている曲だ。
「ジムノペディも古代ギリシャの祭りから名前がついたと言われているけど、全然祭りっぽくないよな」
そう言ってコーヒーを啜る。森川は猫舌で何度も何度も息を吹きかけてはひと口飲むを繰り返す。
「アポロンやバッカスを称える祭り。大勢の裸の若い男たちが歌ったり踊ったりしたそうだ」
ゆったりとしたリズムは決してそういう祭典のイメージとは程遠い。祭りの詳細はわからないが、この祭りが描かれている壺があるという。
「でも、想像してみたことある?」
森川の悪戯心に火がついた。椅子の背もたれに体重をかけ、そのままくるりと回る。
森川は来年50になる。宵月も異例という早さで教授になったが、森川とて30代で教授になった。学生の頃の頃に結婚した妻との間には成人した二人の子どもがいる。学生時代陸上部だったという筋肉質な体に、如何にもという感じでラボ内ではいつも白衣を羽織っている。「理科の先生はやっぱり白衣でしょ」と言って笑う。
「ジムノペディのメロディに合わせて多くの若い男たちが踊るんだ。夜だね。松明の明かりに照らされて、男たちは踊る」
宵月は黙って話を聞いている。自分の子どもらと歳の変わらない宵月だ。森川はつっと視線を逸らして話を続ける。
「酒も入る。気分は高揚する。祭りはどうなるんだろうねぇ?」
「どうなる?」
宵月は眉間に皺を寄せる。森川の言うことの真意がわからないでいるのかもしれない。
「古代ギリシャでは動物だけでなく人も贄として捧げられていたらしい。でもそういった儀式めいた内容はよくわからないのがギュムノパイディア、ジムノペディらしい。ねぇ、どんな祭りだったと思う?」
古代ギリシャといってもだいぶ後世に結成された神聖隊の話もあるように、古代ギリシャは同性の恋愛に寛大であった。かつて森川が学生時代、宗教学の教授が話した「ギュムノパイディアの祭りの式次第の考察」はとても衝撃的でその反動で結婚をしたといっても過言ではない。教授の語る「神のために推奨されるべき同性愛」の必要性がわからなかった。ただ、のちに最強と謳われる神聖隊の話を知った時、守らなければならないと思う対象と共に戦場にいるということは己を奮い立たせる最良の起爆剤になる。目的を同じとする者こそパートナーにするべきだと森川は思った。
この感情の露出のほとんどない若者の恋愛観を知りたい。森川は思った。
「そもそも祭り自体よくわからないんですよ」宵月は言う。
「神様に対する儀式が祈りの他に必要なのか?とか」
おやおや…森川はだいぶ飲みやすくなったコーヒーを口に運ぶ。
「僕自身が祭りに参加したことがないので、祭りは目の前を通り過ぎる一過性のものでしかなくて」
宵月は言葉を探すかのように、上を見上げ、プログラムコードが映し出されているモニター画面を見た。
「祭りってどこからどこまでが祭りなんでしょうね?」
「ん?」
「ほら、よく、遠足は帰るまでが遠足、とか言いますよね。もっとも僕は遠足に行ったことないんですが。祭りって日常の中にある非日常なものだとすると、どこで人は日常に戻ったと思うのかな?とか」
森川は自分が求めていたものとだいぶ離れてしまったが、宵月がこうして研究以外の考察を口にすることが新鮮で楽しかった。
「学祭とかは準備している時が一番楽しい、とか言ってましたし。学祭も祭りですよね?やはり学問の神様を称えるのかな?って訊いたら息抜きだよ、って言われたけれど」
森川は声を立てて笑った。
「失礼。すまない」
「いえ」
宵月はどうしていいかわからず、とりあえずコーヒーを飲んだ。
「僕は宵月くんの同性愛に関する倫理観が聞きたかったんだけど遠回り過ぎたようだね」
宵月はびっくりした顔で森川を見た。
「同性愛云々より恋愛観自体聞きたかったが正しいんだけど、そこまで行きつきそうにもないな」
森川はそう言ってまた笑う。
「恋愛観って…わかりません」
宵月が俯いたまま言った。
「いや、すまんすまん。宵月くんのそういう噂を一個も聞いたことなくてね。好きな人とかいないの?」
「恋愛としてのですか?」
「もちろん」
「いません。というか恋愛自体よくわからないです」
「祭りと同じに?」
「そうですね。経験無いんで。先生は結婚していらっしゃいますが、奥様とは恋愛なさったんですよね?」
「まぁ、そうだな」
「恋愛とはどういうものなのですか?」
宵月に講義の質問と変わらないトーンで森川は苦笑した。
「うーん。そうだね。恋愛その1は、自分の好きな相手に自分を好きになってもらいたい、だね。自分だけを好きに、好きなランキングの一位に自分を置いてもらいたい、だね」
「その1ということはその2もあるんですか?」
「いい着眼点だ」
森川はラボでのディスカッションと変わらぬトーンで話す。
「その1はいわゆる片思いから告白するまでがピーク。その2は告白する少し前から出てくる、相手にみっともない姿を見せたくない、だ」
宵月はメモでも取りそうな真剣な顔で聞いている。
「さっき話した神聖隊がどうして最強だったか?神聖隊は男性同士のカップルばかりで構成された軍隊だ。恋人が同じ戦場で戦っている。相手を守りたいという思いと同時に相手にみっともない姿を見せられないというプライドもある。強くもなるよ。自分のみっともない姿を見せたくないし、相手のも見たくないだろうね。自分の恋人はこんなにも優秀な戦士なのだと誇っていたい思いもある」
森川はカップをテーブルに置くと目を閉じ腕を組み、うんうんと頷く。語る言葉を整理するときの森川の癖だった。
「でもね」
森川は宵月を見る。
「相手に自分のみっともない姿を見せられる、相手のみっともない姿を受け入れられるようになると家族になれるんだ。もちろん、基本はみっともない姿は見せたくない。特に僕はね」
宵月は「あっ」と小さく言った。
「結婚してから家族になれるか、家族になったから結婚するのかは人それぞれだけどね」
宵月は頷きつつも何か考えているようだった。
「親子はどうなんです?子どもは親のカッコ悪いところ見たくないですよね?」
「でも恋愛その1がないじゃない?普通は。自分を一番にして欲しいという欲求を覚える前に子どもは親にとって一番だ」
「そうなんですか?」
「まぁ、一番がひとりだけとは限らない。僕は妻とふたりの子どもとの三人が一番だ」
宵月はまた少し何か考えているようだった。
「そうかもしれませんね」宵月が言う。
「僕には親がいないので、他の家族に置き換えて考えてたんですが、確かに先生のおっしゃる通りですね」
宵月の家族構成すらも知らないことを森川は改めて自覚した。複雑な環境なのだろうか?彼のこの独特の空気はそういった環境が作ったのだろうか?森川は宵月のことが気になった。
「恋愛の部分がなくても家族にはなれるんですよね?昔は婚礼まで相手のことを知らされずにいたなんてこともありますから」
宵月は言った。
「恋愛経てというのもなかなかオツだよ」
森川は下手なウインクをしてみせた。
宵月がくすりと笑う。
「ポイントとして覚えておきます」
「そうしたまえ」
ゆったりと密やかにジムノペディが流れ出す。
この曲に乗って踊る男たちの姿は遠過ぎて見えることはないのだろう、と森川は思った。

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番外編