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隣人006

Kさんと飲みに出た。
初めてのことだった。
Kさんが隣に越してきてから2年近く経つ。
でもKさんはあまり家に帰ってくることがない。
出張の多い仕事で、しかも海外が多い。
アルバイト先のパン屋の常連の滑川さんの旦那さんもそうらしい。
「今はメキシコに自動車工場を建てに行ってるの」と言っていた。帰ってくるのは2年後らしい。それでも年に一回くらいは休暇が取れるから戻ってくるという。
パン屋の主人が「寂しくないですか?」と訊ねる。
「今は顔を見て話せる手段があるからね」
寂しい寂しくないではなく、そう答えていた。
Kさんは1〜2ヶ月に一度帰ってくる。そして1〜2週間ほどでまた留守になる。一度出張先で怪我をしたという時は1ヶ月ほど休養を兼ねた内勤で、毎朝出勤するために駅に入って行く後ろ姿を見かけた時期もあった。
その頃も一緒に飲みに行けたかもしれないが、怪我をしているのになぁ…とせいぜい我が家に呼んで一緒に夕飯を食べるくらいだった。
飲みに出たのは土曜の夜だった。
日曜日はパン屋が休みなので、早起きをしなくていいからだ。
だからライブも土曜の夜。
「しばらくライブ場が、感染症の流行で使えなくて、いよいよ再開したら、今まで我慢していた連中が一斉にライブを開催するものだから、競争率激しくって」
「大変ですね」
パン屋の顧客でもあるダイニングバーで飲んでいた。
ここはいつも混んでいる。
だけど、ちっとも騒々しくない。
だからといって気取って飲む必要もない。
Kさんはアルコールに強い。
さっきから顔色ひとつ変えずに飲んでいる。
「そうですね。あまり酔わないです。だから、ひとりだと滅多に飲みません」
「どうして?」
「酔いもしないのに。勿体無いでしょう?」
そういうものなのか?と思うくらいには自分は酔っていた。
「僕もひとりじゃ飲まないな」
僕の言葉にKさんはコクコクと頷いた。
「朝、早いですしね」
「うーん。お酒はね、僕にとってはコミュニケーションツールだから。誰かとじゃないと飲まない」
「じゃあ、今日は久しぶりのお酒ですか?」
Kさんに言われて、今度は僕がコクコクと頷いた。
「パン屋のバイトする前は毎晩ビールを…」
「毎晩?」
「ひと缶だけです」
と言うとKさんはフフフと笑う。あまり変わらないようにも見えるが、いつもよりよく笑うような気がする。
「Kさんはご出身はどちらなんですか?」
「ん?どうして?」
「お酒が強そうだから。北か南かどちらかな?と思って」
Kさんは「あぁ」とも「おぉ」ともつかない声を出したあとクスクス笑った。
「なかなかの推理ですね。名探偵殿」Kさんは言った。
「東北です。だいぶ北の」
都市と呼ぶには田舎な地方都市の出身だと言った。町の名前はテレビか何かで聞いたことがあるような気がした。
「どんな町なんですか?」
「それが中学になる前には出ていたからね。あまり印象に残ってないんだ」
「お父さんの転勤か何かですか?」
「いや。両親を亡くしてね」
「え?」
「施設に入るかどうかしなくちゃならないって時に、親戚が引き取ってくれたんだ」
Kさんはなんてことない風に語る。
僕はそれにつられるかのように「どちらに行かれたんですか?」と間抜けたことを訊いた。
「それがね」Kさんはクスリと笑った。
「ハワイ」少し声をひそめてKさんは言った。
「ハワイ?」逆に僕は声が裏返った。
「祖父。父の父だね。祖父の弟という人の息子さん。父のいとこという人が僕を引き取ってくれたんだ」
もっと近い関係の人はいなかったのだろうか?
「奥さんも日本人だけど、ハワイに住んでいて。僕もそのままハワイに。大学はアメリカだったから、就職するまでずっと海外」
「ということは、英語ペラペラですか?」
僕の問いに「え?」という顔をした。
「まぁ、商談ができる程度には」
「そうですよねぇ」
僕はグラスの中の酒-ハイボールを飲み干した。
Kさんに何か訊かないといけない。そう思った。
今までのやり取りで、ひどく重要なことを話していたじゃないか?
「よくは覚えてないけど、ひとつだけ」
「え?」
「ひとつだけ、時々思い出す風景があるんだ」Kさんが言う。
「それは。どんな?」
「通学路なんだけどね」
Kさんはこちらを見ることなく語り出した。
「昔、牧場だったというところがあって。自分が小学校に入学したばかりの頃も牧場の名残があってね。馬が2、3頭いたんだ。でもいつの間にかいなくなっていた」
Kさんはひと口酒を飲んだ。
Kさんはスコッチウイスキーの銘柄指定でやはりハイボールを飲んでいた。
「それまで牧草が生えていたところのほとんどが何かしらの工事が始まった中でひと区画。通学路脇のひと区画だけが麦畑になったんだ」
「麦畑?」
僕は見たことがない。毎日小麦粉を練っていても麦の生えている様は見たことがない。
「6月末にその区画が黄金色に変わるんだ。他のところにはまだ青々とした草が。緑色の中にそこだけが黄色くなっていて、最初は枯れているんだと思って怖くなった。そのことを家に帰って母に言うと『あれは麦だよ』と言ったんだ」
テレビのCMで見た麦畑を思い出す。黄金色の麦畑。
「大した広さじゃないんだ。ただ、子どもの僕には麦は大きくて、その麦が周りと全く違った速さの中で生きているような気がして怖かったんだ」
「怖かったんですか?」
「そう。でもね、ある朝通ったら、麦は刈られてなくなっていた」
Kさんは肩をすくめるような仕草をした。
「麦畑の後にまた何かの草が生えて。ほんとあっという間にそこは緑に染まった。夏休みが終わって2学期になる頃には、麦畑だったことを忘れてしまっていたんだ」
そして工事していた側には何かしらの建物の建つ準備がされていた。とKさんは言った。そしてそれはスーパーで、母親が近くにできたことを喜んでいた。と言った。
「翌年、また麦が植えられたんだ」Kさんが言った。
「黄色くなる前に気がついた。これは麦だ。ってね」
そこでKさんはこちらを見た。
少し笑ったように見えた。
「毎日、緑色の麦畑の前を通るんだ。それなのに、麦はある日突然黄色くなるんだ」
「え?」
「昨日まではこんな色じゃなかった。って、驚くんだ」
Kさんはまたひと口、酒を飲んだ。
「毎年。と言っても数回だけど、僕は決まって驚くんだ。そのたいして広くない麦畑の前で」
横顔のKさんはゆっくりと目を閉じ、そして開く。
「今でもその景色と、びっくりしている自分を思い出すことがある」
どういう時に思い出すのだろう。そんなことを僕は思った。
「ハワイにも麦畑はあったんだ。でも全然規模が違ってね」
そうだ。ハワイに移り住んだと言っていた。
「でもね。思い出すのは、通学路のほんの一角の麦畑なんだ」
Kさんはそう言って、今もその麦畑を見ているようだった。
「あれっぽっち植えて、何にしていたのかのかなぁ。って随分後になってから思ったよ」
そしてまた肩をすくめるような仕草をして、Kさんは目を閉じてほんの少しだけ寂しそうに笑った。
僕は空になったグラスを見て、お代わりを頼んだ。
麦秋と呼ばれる季節はまだ少し先だ。
ここから一番近い麦畑はどこにあるだろう?
バイト先のパン屋の主人なら知っているだろうか?
そして、ふと、思った。
Kさんがご両親を亡くしたのは、そんな麦のなる季節だったのではないか?
でもそれは僕が訊ねる話ではない。そう思った。