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里の夏

「今年の暑さは異常じゃないか?」
「夏神様がお留守だからなぁ。大神様がまた加減せずに暑くしておられるのだろう」
「おや?夏神様が留守とな?」
「龍神様の祠が壊されたのは知っとるか?」
「あぁ、知っておるぞ。ここの者じゃないんだろう?壊した奴らっていうのは」
「もちろんだとも」
「夏神様は龍神様を追って、其奴らのいる里に行ったとか」
「全く…迷惑な話だ」
「龍神様までいないとなっては、雨は望めないかのう?」
「そうだ!」
「何だ?」
「のの様に頼んでみるのはどうだろう?」
「なんと!」
「真夏に雪を降らせる気か?」
「いやいや…雪を降らせなくとも雪雲でしばしの間日差しを覆ってもらえないかと。兄神様の秋雲の神様はまだ季節でないからおいでにならぬが、のの様は社の奥にいらっしゃるはず」
「なるほど」
「おぬし、賢いのう」

「のの様は暑さあたりで寝込んでおられます」
のの様に仕える巫女が言う。
「ここ数日、のの様に会いに来られる方が多いのですが、皆さんどうしたのですか?」
人々は口々にこの暑さをどうにかしてもらいたくて来たことを巫女に伝える。
「困りました。のの様は雪の神。夏は社の奥から出てこられません。ましてや、この暑さ」
巫女もそう言ってそっと汗を拭った。
鈴が鳴った。
「失礼致します。のの様が呼んでいます」
巫女は頭を下げた。
「あっ」
社の入り口で巫女は振り向いた。
「裏の森はだいぶ涼しいです。冷たい水も湧いております。少し休まれていかれては如何でしょう?」
巫女の言葉は「しばらく待て」の意だと解釈して人々は森で待つことにした。

「のの様、如何なされました?起き上がられて大丈夫ですか?」
のの様は真白な肌に鴉の羽の如き黒髪と黒い瞳を持つ。神に仕えし巫女すらも頬を染める美しさだ。
「おもてがだいぶ賑やかなようだ。皆、この暑さの中元気で何よりだが、何か起きているのか?」
巫女は龍神様の祠が壊され、怒った龍神様が壊した者たちの里へと行ったのを、夏神様が止めに後を折った話を伝えた。
「それはまた…で、これはまた加減知らずの大神様が暑くしていらっしゃるというのかい?」
巫女は首を傾げるだけだった。
「大神様に会いに行ってくる」
のの様は、やれやれと立ち上がった。
「外はとても暑いです。無理ですよ」
「大丈夫。大神様のこしらえた『ちか道』を通って行くよ」
のの様は華奢な体を少しだけ揺らして社の下にあるという大神様の神殿に繋がる『ちか道』に向かった。

「おぉ、ののや。久しぶりだな」
「ご無沙汰しておりました。桜の花見のお誘いを受けた時以来です」
のの様は丁寧に頭を下げた。
「堅苦しいのはいいから、もっとこっちへ」
のの様は苦笑する。
「大神様、私が側に寄ると涼しめるとお思いなのでしょう?ならば、この暑さをなんとかしてくださいませ」
大神様の顔もだいぶ暑そうに赤くなっている。
「まさかとは思いますが、私がこのように訪れるとお思いになってのことではございませんよね」
「違う違う。断固としてそれはない」
「ならばよろしいのですが」
のの様はふわりと揺れるように、大神様に近づいた。
ひんやりとした心地よい風が揺れる。
「ふぅ…生きた心地がするとはこのことだな」
大神様の顔の赤味がだいぶ引いた。
大神様はお年のせいか力加減が思うようにいかなくなっている。それを知っているのは今はのの様だけだった。

「おや、心地よい風が吹いてきたぞ」
「あぁ、生き返るってもんだ」

「古きものはみな用なしと言うものがおる。古きものはみなまやかしだと言うものがおる」
大神様はそう言うと「ふぅ」と溜息をついた。
「龍神の祠を壊すなど恐れを知らぬものよ」
いくら夏神様が後を追って止めたとて、その里は無事では済まないことは年若い神であるのの様にも想像がつく。
「なぁ、ののや。いずれはこの里の者たちも、我々の姿が見えなくなる時がくる」
大神様はそっとのの様の頭を撫でた。
のの様は大神様を見上げて言った。
「わたくしは、この里の者たちを一番最初に眠らせるつもりでございます」
その言葉に大神様は目を見開いた。
「里の者たちが、わたくしどもと心を通わせているうちに、この世の終わりを知る前に、眠るが如くに葬ることが、わたくしの彼らに対する礼になると思っております」
のの様の大きな黒い瞳が白い瞼に隠れる。
「そうか…それがいい」
大神様は、のの様の細い体を大きな腕で抱くように隠した。
「恐ろしい思いをさせては気の毒だ」
「はい」
大神様の黒い衣の下で、のの様は小さく蹲る。
「ここでだったら泣いても構わぬ。ここで泣いても雪は降らぬ」
のの様の小さい背中がかすかに震える。

「おやおや、雲が出てきた」
「巫女殿がのの様にわしらの願いを伝えてくれたか」
「心地よい風も吹いている」
「のの様に夏の花を御礼に摘んで差し上げよう」
「美味い氷菓子も喜ばれるに違いない」
「ついでに大神様にも差し上げよう」
「これこれ、ついでなどと…」

この里にあとどれくらい夏が訪れるのか、誰も気にするものなどいなかった。

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