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『カチュラ』

蒼月は家に急いで帰った。
6月の少し湿度を感じる空気が気持ち悪かった。
今日は天明先生が来る日だ。
天明先生に話したら、ノルマクリアだ。
多分、天明先生は知らないだろう。
十和部さんに話すのもいい。でも、十和部さんが3日以内にこの話を知らない人3人に会うかどうか…会わないかもしれない。
天明先生は、今日は青藍の様子を見て、明日からまた研究会で留守になる。研究会の人たちは『カチュラ』の話を知らないだろう。
だから天明先生は大丈夫。
『カチュラ』は3日以内に3人に教えないと、本当に『カチュラ』が部屋に現れてしまう。

「ただいま」
家に帰り、まだ新しいランドセルを背負ったまま洗面所に行きうがい手洗いを済ませる。
「お帰りなさいませ。蒼月坊ちゃん」
「十和部さん。ただいま。青藍は?」
「多分まだお昼寝中かと」
「天明先生は?」
「居間にいらっしゃるのではないでしょうか?」
蒼月は今がチャンスだと思った。
「あれ?」
居間にいるはずの天明先生がいない。
キョロキョロしていたら、「おかえり」という声と共に天明先生が入って来た。
「え?」
天明先生の腕には青藍が機嫌良さげに抱かれている。
「どうしよう…」
「ん?どうした?」
「天明先生に聞かせたい話があったんだ」
「うん」
蒼月はチラリと青藍を見ると、どうしたらいいかわからず下を向いてしまった。
「なるほど…」
天明先生はゆっくりと青藍を下ろした。
「青藍、ノアを連れてくるのを忘れた。連れてこれるかい?」
青藍は自分の右手と左手を見るとその両手を口の前に当て「あ!」と言うように口を開いた。
いつも一緒のバクのぬいぐるみを部屋に置いたままだったのに気がついたようだった。
「ひとりで行けるかな?青藍も夏になると5歳のおにいちゃんになるんだよね」
青藍はこくこく頷くと、とことこと居間を出て行った。
「で、なんだい?」
居間の扉が閉まるのを見届けて、天明先生は蒼月に話しかけた。
「先生は『カチュラ』って知ってる?」
蒼月はいつもより少し早口で話し始めた。
「いや。知らないね」
蒼月はホッとした。もしも知っていると言われたら3人目はどうしようかと思っていた。
「真夜中の12時から1時の間に、本棚の12冊目と13冊目の間からカチュラが出てくるんだ」
「ほぅ」と相槌を打ちながら天明先生はソファに腰を下ろした。
「カチュラは白い猫のようだけど脚が12本ある。そして尻尾はとても長い。そしてとても薄っぺらい。黄色い大きな目と大きな口がいつも笑っているような形をしている」
蒼月は天明先生の前に立って話を続けた。
「カチュラがいるととても怖い夢を見るんだ。そして、夢から覚めて、そこにいるカチュラと目が合うと、カチュラに闇の世界に連れ込まれてしまって、二度と元の世界には戻れなくなるんだ」
「ほぅ。それは怖いな。青藍が聞いたら泣いてしまうかもしれない」
蒼月は「うん、うん」と頷く。気がつくと両手をを握りしめていた。
「あのね、天明先生。この話を3日の内に3人にしないと本当にカチュラが出ちゃうんだって。その3人はカチュラのことを知らない人じゃないとダメなんだって」
そこまで言うと蒼月は「ふぅ」っと大きく息を吐いた。
「つまり、僕が3人目?」
「うん」
蒼月が頷いた。

朝、学校に行くとき、待ち合わせの場所に行介が立っていた。
緑と白の傘を手にしていた。
今日は曇り時々雨の予報。
行介が一番というのは珍しい。いつもは蒼月か星嗣が一番最初にいる。
蒼月と星嗣はほぼ一緒。そして少し遅れて夕輝が来た。
みんな揃って歩き始めた時に、行介が「ねぇ、カチュラって知ってる?」と話しかけてきた。3人とも「何それ?」と言うと、行介はニヤリと笑って話し始めた。
「マジ?マジそれ?」
「誰が言ってたんだよ、そんな話」
夕輝と蒼月が行介の前に立ち塞がる。
「兄ちゃん」
行介には5歳上の兄がいる。
行介の兄は、昨日夕食を食べ終わって家族でテレビを見始めたとき徐ろに『カチュラ』の話をしたのだという。
「3人に言わなければカチュラが本当に出てしまう」のところで父親が「明日から出張だからみんあに話してこよう」と言い、母も「そうね、ユキちゃんに電話しようかな」とか言って笑っていたという。
「でも、俺も3人に話したからおしまい。大人の方が知らない人が多いのかな?なんだかお父さんもお母さんも余裕って感じだった」
夕輝が駆け出し、3人は慌てて追いかけた。
教室は先生が来るまで大変な騒ぎになった。
蒼月たちのクラスだけでなく、学校のほとんどのクラスが『カチュラ』の話で大騒ぎだった。

居間の扉を叩く音がした。
小さな音で、それが青藍だとすぐにわかった。
蒼月が慌てて扉を開くと、ぬいぐるみを両手で抱えた青藍が立っていた。
「おいで、青藍」
「青藍。えらいな。ひとりで来れたのか」
天明先生がそう言うと、青藍は大きく頷いた。
天明先生が座るソファの隣の1人掛け用のソファに蒼月と青藍が並んで座った。
「僕の他に誰に話たんだい?」
「どうして?」
「話を知っている人に話したらダメなんだろう?」
「後ろの席の公昭くんと、教頭先生」
「教頭先生?そいつはすごいな」
中休みに廊下に出たら教頭先生がたまたま通りかかった。
「今日はみんな賑やかだね」
朝、結局蒼月はひとりにしか話すことができなかった。公昭くんに話しているうちに、クラスのほとんどが『カチュラ』を知ったのだった。
「教頭先生、カチュラって知ってる?」
今日は「なんだい?それは」と、蒼月の目の高さに合わせて屈んだ。蒼月は一気に話した。
教頭先生は何故か途中からニコニコしながら、「うんうん。それで?」と話の続きを催促するかのようだった。
「そして、3人が僕なんだ」
天明先生も教頭先生のように笑った。
「青藍に話したらだめだよ。青藍はお話が上手にできないから」
青藍が蒼月を見上げる。蒼月は青藍の頭を優しく撫でた。
「言わないよ。明日の研究会で話してくるさ」
それはすごいなと蒼月は思った。
「それにしても蒼月は青藍の優しいお兄ちゃんなんだな」
天明先生は嬉しそう言う。
「当たり前だよ」
蒼月は青藍の肩を引き寄せた。青藍はカチュラなんて怖いものはずっと知らないままでいい、蒼月は青藍のこともカチュラから守れたと思うととても嬉しかった。