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口笛の歌

僕が小学校に入る前、半年ほど母方の祖父母の家にいた。
弟が生まれる時だった。僕と入れ違いに祖母が僕の家に行った。
祖父と二人暮らしだったがなんら不自由も不便もなかった。
祖父は家事はなんでもできる。
すでに70歳を過ぎていた祖父だけど、身体能力は決して衰えておらず、遊びたい盛りの僕が退屈することはなかった。僕が持参したゲームも一緒になって遊んでくれた。
祖父母の家は東北のとある町で、僕が行った頃ちょうど桜が見頃で、僕はその年とても長く桜が楽しめたのを記憶している。
いつもはパッと咲いてパッと散っていく桜の花をじっくりと見ることができた。
祖父が僕を肩車して桜並木の道を散歩した。いつもはピンクの塊だった桜が花の集まりだと初めて意識した。
祖父は散歩の時に決まって口笛を吹く。
いろんな曲を吹くが最初はいつも同じ曲だった。
「おじいちゃん、それはなんていう曲?」
「ん?これはな、『おっさななじみの おもいではぁ』ていう曲」
歌うように答えてくれた。
「おっさななじみの おもいではぁ あぁおいレモンの あじがするぅ」
そこまで歌って再び口笛を吹く。
桜の季節が終わって、梅雨の季節、夏と季節は過ぎていく。
祖父と僕の日々は、同じような毎日に思えたが、決して退屈することなかった。
祖父は外でも家の中でも、僕が退屈することなく様々な遊びや手伝いを提案してくれた。
祖父が料理をする時も掃除をする時も洗濯物を片付ける時も僕は祖父の隣にいた。お風呂も毎日一緒に入った。
祖父にはそれまで年に1、2度会う程度だったが、一緒に暮らして見て本当に祖父が好きになった。
父も家では遊んでくれる。でも、祖父と遊ぶのは友だちと遊ぶのと同じワクワク感があった。
相変わらず祖父は僕を肩車して散歩に出かける。
いつものように口笛を吹き始める。
「おっさななじみの おもいではぁ あぁおいレモンの あじがするぅ」
祖父の口笛に合わせて歌ってみた。
「おぉ!覚えていたのか」
祖父が嬉しそうに笑った。
そして再び口笛を吹く。
「おっさななじみの おもいではぁ あぁおいレモンの あじがするぅ」
そのあとの歌詞は知らないけれども「フンフン」と祖父の口笛に合わせて歌っていた。
秋の気配が町を包む頃「トオルもそろそろ帰らんとな」と祖父が言った。
「帰りたくないなぁ」
「じいちゃんも一緒に行くけどな」
「ホント?」
「じいちゃんもトオルの弟に会いたいからな?」
「弟?」
「赤ちゃん、生まれるって言ってたの覚えているか?」
「うん」
「その赤ちゃんがトオルの弟のミツルだ」
「ミツル?」
「会いに行こう、な」
新幹線で僕の家のある町に向かった。
すでに母は退院していた。
僕が祖父の家に着いて10日後に生まれた弟は、目が大きく、あとのパーツは皆小さくとても可愛かった。
祖父も何度かニコニコ笑いながら抱き上げていた。
でも、祖父母が帰るまでの3日間祖父は僕のことを抱いていることが多かった。
家に帰ってきてから2日間は雨だった。
3日目、ようやく雨は上がった。
祖父は「トオル、散歩に行こうか?」と言った。
僕の家はマンションだった。
マンションには敷地内に公園があった。
祖父の家のあたりは紅葉がはじまりかけていたが、こっちはまだ葉が緑のままだった。
祖父はまた僕を肩に乗せて、口笛を吹きながらのんびりと歩き始めた。
「おっさななじみの おもいではぁ あぁおいレモンの あじがするぅ」
僕はまた口笛に合わせて歌った。
祖父は口笛を吹くのをやめて一緒に歌い出した。
「おっさななじみの おもいではぁ あぁおいレモンの あじがするぅ」
僕はそこまでしか歌詞がわからない。
「閉じる瞼にその裏に 幼い姿の君と僕」

祖父と祖母は昼過ぎに新幹線に乗って帰っていった。
僕が次に祖父母の家に行ったのは、2年後、祖父のお葬式だった。

「おっさななじみの おもいではぁ あぁおいレモンの あじがするぅ」
結局僕はここまでしか覚えていない。
その歌を僕は何度も何度も祖父が骨になるまでの間歌っていた。