【小説】ペデストリアンデッキの舞姫と焼けた靴 3
第一章 (3)
「おう、里奈ちゃん。こっちこっち」
八丁堀駅からほど近いもんじゃ焼き屋に里奈が入店すると、ポロシャツにチノパンをはいた五十代くらいの男性が声をかけた。里奈の叔父、志朗だ。
「志朗おじさん。ご無沙汰しています」
「お。なんかすっかり大人の挨拶するじゃねぇか」
「当たり前でしょ。もう私、32歳よ」
「もうそんなになるのか……。道理で俺もおっさんになるはずだ」
そう言って志朗は自分の頭をかいた。二人はビールとつまみを頼んで近況を語り始めた。
志朗は都内にある個別指導塾の教室長として勤めている。里奈が大学に入学し上京してきたとき地元の両親に代わり何かと世話を焼いてくれたり、夫と別居して二度目の上京をするとき不動産情報の相談に乗ってくれたり、里奈に親身になってくれる身内だった。
里奈は子供の頃から親戚の集まりでは決まって志朗の近くにいった。価値観の相違がある母親と違い、志朗はフランクなノリでいつも里奈が楽しくなる話をしてくれた。大人になってからもやりたいようにやることを勧めてくれる叔父に、里奈は些細なことも含め両親よりも頼ってしまうきらいがあった。そのことがまた、母にとっては面白くないのも十分理解しながらそうせずにはいられない。
「で、旦那とはどうなったの。別れたの」
またその話か。思わず里奈は顔をしかめた。夫のことなんてかすりもしない毎日を過ごしているのに、ここのところ連日話題に上る。
「別れてないよ。別れる気もない」
「なんで? 離婚したら楽だぞ。経験者は語る」
志朗は数年前に妻と離婚していた。
「離婚したあとが楽でも、離婚するまでの過程が面倒くさい。いまこうして離れて暮らしてお互い波風立てず生活出来ているから私はそれでいい」
「ふーん。そういうもんかねぇ……」
「叔父さんだってそもそも離婚したくてしたわけじゃないでしょ」
「うわっ。そんな人の傷に塩を塗るようなこと言うようになったの……。あんなに可愛かった里奈ちゃんが……」
「それ、可愛さ、関係ない」
詳しいいきさつまでは聞いていないが、母が言うところによると、志朗は女性関係が原因で破局になったらしい。里奈はまじまじと志朗を見た。どこからどうみても普通のおじさんなのだが、どこにそんな波乱万丈なラブストーリーが転がっていたのだろう。
「まぁ別れるなら、なるべく慰謝料を抑える方法とか、あとくされ残さないやりかたとか、おじさんに任せろよ」
「なんで私が有責配偶者確定みたいな言い方するんですか……」
「だって、自分で前に言ってただろう。旦那は相当怒ってるんだろ」
「私の行動に対し腹を立てているだろうけど、仕事での別居だし、私は別に不倫したわけでもないし」
そう呟いた里奈に対し、志朗は運ばれてきたもんじゃの具を鉄板にひろげた。ジュウジュウといい音をたててもんじゃの具が炒められていく。
「俺だって、不倫したわけじゃないぜ。だけどあれよあれよという間に俺が悪いってことになって、こうして慰謝料地獄の終身刑だ」
首を横に切る仕草をした後、志朗は手際よく炒めた具をドーナッツ状の土手にすると生地を注ぎこんだ。
「そうなんですか? 不倫じゃなかったの?」
「おいおい……勘弁してくれよ。お母さんに聞いたの? あいつ本当に昔から憶測で決めつけて物事言うよね」
「不倫じゃないなら別れることなかったんじゃない。ましてや慰謝料なんて……」
土手の中で生地がぐつぐつとしているのを眺めながら、志朗は苦笑いした。
「可愛い女の子の店には行ってた。言い訳じゃないけどさ、毎日毎日塾で小生意気な高校生とその親を相手してるとさ、心が荒むのよ。中には上から目線のモンペみたいのもいるしさ……。
そんで、家に帰っても嫁も子供もグーグー寝てるし、飯も残ってねぇし。子供は子供でちょうど上の娘が反抗期まっさかりでさ」
「可愛い女の子の店で呑んでただけ? ほんとにぃ?」
「ホントだよ! そんな甲斐性ねぇよ。見てればわかるだろ? 言わせんな」
「だったらそう言えばよかったじゃない」
「言ったけど……なんか、突如として現れた敏腕弁護士みたいな男が、俺が『家庭も顧みず、稼いだ金を女につぎ込んでる』みたいな図式を創り上げて俺は負けちゃったの」
「こっちは弁護士立てなかったの?」
「最初はね。夫婦の痴話喧嘩みたいのに弁護士なんて、それこそ金の無駄だと思ったのさ。だけど向こうからすればそこまで見込んだ用意周到な計画だったんだな。俺を追い出す口実を嫁はずっと探してたんだ。
言っとくけど、俺は断じて塾で稼いだ金には手をつけてない。家庭にはちゃんと生活費を入れてた。お小遣い稼ぎにやってた副業のあぶく銭で遊んでただけなのにさ……」
もんじゃをつつきながら志朗は肩を落とした。そんな経緯があったとは……里奈は初めて聞く志朗の離婚話に少し驚いた。
「まぁでも、金は搾り取られてるが自由の身だ。嫁にグダグダ脱いだ服がどうの言われねぇしな」
そう言って志朗はニッと笑った。
里奈は苦笑いした。
店内の雑談がひときわ大きく聞こえる。子供の頃より志朗の体格が一廻り小さくなったように思える。
*
「まぁ、里奈ちゃんも気楽な一人暮らしなんだし、俺は暇だからまた食事に誘ってよ」
もんじゃ屋を出た志朗はそう言った。里奈は微笑んだ。
「うん。奥さんがどう思ってたか知らないけど、私は志朗おじさんと飲んでるの楽しいわ」
志朗と地下鉄に乗り、里奈は数分の最寄り駅で降りた。
「夜道気をつけろよ!」
降りがけに志朗に声をかけられ、ほんとお父さんみたい……と里奈は思わず笑った。
束の間の叔父との時間で少し角がとれたような穏やかな気持ちになった里奈は、ふと思いつきでコンビニでアイスを手に取った。少し高級ラインのアイスをカゴにいれ、たまにはの気持ちでリョウの分も購入した。アイスなど喜びそうにもないが、渡したときの反応は見ものだと思った。
コンビニの袋をぶらさげマンションの外から部屋を仰ぎ見た。自分の部屋に明かりがついているのを確認し、里奈は心持ち早歩きでオートロックを抜け、エレベーターに乗った。
「ただいま……」
アイスを渡す展開を考えてあえて静かに扉を開けた。ところがすでに扉の先に影があり、一瞬里奈はリョウに出迎えられたのかと思い面食らった。だが、数秒後自らの予期しない人物が目の前にいることに気がついた。
影の主は、里奈の母親だった。
「お母さん、なんで?」
「なんでじゃないわ? 貴女どういうつもりなの」
母の表情は心底怒っていて、里奈は思わず視線をそらした。視線を向けた部屋の中には、リビングの端に座り込み天井を見上げているリョウがいる。
なんと答えればいいか分からないまま、母親を見て立ち尽くした里奈は次の言葉で目が覚めた。
「あなた、裕貴さんになんて言い逃れするつもり?」
「言い逃れ……?」
「そうでしょ! 都内にわざわざ出てきて、こんな男を囲って……恥ずかしいったらないわ。どんなつもりでこんなことしてるの?」
母がリョウを指さしながらヒステリックに叫んだ。
「ちょっと……! お母さん、なんか勘違いしてる。この人はそういった関係の人じゃない。マンションの前に行き倒れてたから人助けとして傷の手当して居候させてただけよ」
里奈の弁明に、母親は信じられないものでも見るような視線を里奈に向けた。
「貴女……そんなつまらない言い訳が通用すると本気で思ってるの?」
「言い訳じゃないわよ! お母さんこそ突然きて勝手に人の家に上がっておいて、言い逃れとか言い訳とかさっきから一体なんなの?!」
思わず強い口調で言い返したら、母は一瞬怯むような動きを見せた。
「だ……だったら、今すぐ追い出しなさいよ、あの男。見たところ、もうすっかり元気そうじゃない!」
「お……追い出すとか、そんな言い方失礼でしょ!」
そう返した瞬間、リョウがユラリと立ち上がった。背丈の高いリョウに見下され里奈と母は固まった。リョウは二人の口論が収まったのを見てとると静かにこう告げた。
「わかりました。出ていきます」
それまで黙っていたリョウが発言したことに母はそれまでの勢いを鎮火させた。リョウは数少ない身の回りのものを集め始めている。そして、ナップサックひとつ分の〝私物〟を背負うと改めて母に向き直りこう告げた。
「図々しく居座っていたのは僕のほうなんで。里奈さんはなにも悪くありませんよ。いままでありがとうこざいました」
淡々と、それでいて強い意志の感じさせる言葉に当の母はきまりの悪そうな表情で視線をそらした。里奈もこれまでずっとぶらっきぼうな物言いだったリョウの畏まった態度に驚き、何と言っていいか分からない。
いずれこうなるだろうとは思っていたが、こんな形を望んでいない。そんな里奈の心中を察しいるのかいないのか、リョウは玄関へ向かった。
そうだ、今はいったんこの場を収めるつもりなのかもしれない。どちらにせよリョウの職場は整体院なのだし、会えなくなるわけではない。
そんな風に里奈は考えて玄関へ向かうリョウを追いかけた。母はそれを見てフンっと鼻を鳴らすとソファに座り込んだ。
リョウは特に振り返らずそのまま家を出ていった。
リョウの居なくなった室内に里奈と母親の気まずい空気が流れる。母は言うだけ言ったあといつもこのように言葉を発しなくなる。それを母自身は「貴女に考えさせるため」というが、里奈は先を考えずに言葉を発してるだけだと気づいていた。いつも固定観念で発言し、異なる意見を寄せ付けない。相手がどう感じるかなど考えないし知ったことではない。母はそういう人だと思っていた。突然、里奈の家に来たのもおおかた父と喧嘩したとか、そういう理由だろうと思った。理由を尋ねても答えないだろうが……。
「お母さん。私、買い物行ってくる。お母さん、うちに泊まっていくつもりだったんでしょ。私の寝室つかっていいから。じゃ」
里奈はそう言うと、鍵をつかんでマンションを出た。玄関に置きっぱなしとなっていたアイスはすっかり溶けて袋の中で柔らかくなっていた。里奈は内心の苛立ちが抑えきれず、袋ごと無造作にコンビニのゴミ箱に捨てた。
駅前の赤提灯に寄ろうとして止めた。常連の人に声をかけられても笑える気がしない。里奈はテナントビルのファミリーレストランに入店した。案外、人と絡みたくないときはファミレスのほうが誰も干渉してこないので無になれる。生ビールを頼んだ。志朗と吞んでいた楽しい気分も酒の酔いもすっかり醒めた。
――なんでこうなるんだ。
リョウは私が自分で判断して家に居候させてた。誰にも何も言われたくない。例え母にでも。
ぐるぐると支配される苛立ちを流し去りたくてビールを煽る。気づくと5杯目を注文していた。店員が気まずそうに声をかける。
「お客様……当店23時閉店となるため、先に一度お会計をしていただけないでしょうか」
里奈は伝票を持つと立ち上がった。酔った頭にも居座って迷惑をかけてはならないくらいの理性がギリギリ残っていた。
ファミレスを出たあと、駅前でぼんやりと立ち止まった。……帰りたくない。まるで女子高生のような言葉が脳裏に浮かんで苦笑した。
酔っ払いの男がこちらの姿を視認し近づいてくるのが目の端に入ってくる。
「ねぇ……どうしたの。お姉さん。帰れなくなった?」
ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべる男を一瞥すると里奈はその場を立ち去ろうとした。
「おい、シカトすんじゃねぇよ」
ぐいっと男は里奈の肩を掴んだ。その力が思いのほか強く、里奈のほうも全力で応じることになった。
「やめてよ!」
振りほどこうとしたその手首をさらに男が掴んだ。
「いいからこいよ」
掴まれた手首を捻られるような格好で里奈は連れていかれそうになった。
「離してよ!!」
ほぼ絶叫に近い声を上げたことにより、周囲がざわざわとし始めた。さすがの男も手首の力を緩めた。そのすきに里奈は走り去った。
自宅についた里奈は嘔吐した。走ったことにより悪酔いのような状態になっていた。母は寝室で寝ていた。
胃の中身がからっぽになるまで吐いたのに頭痛が治まらない。リョウにメンテしてもらいたいのにもうそれも叶わない。言いようのない苛立ちがあった。
翌日、母が起きるより前の早朝に里奈は家を出た。合鍵を残し、伝言をメモで置いた。せめて会社にいたほうが気が楽だろうし、仕事はいくらでもあった。
「真山さん、見てないっすか?」
結城智哉が同僚に尋ねた。
「真山さん? 今日みてないかも。休みじゃないの?」
「いや……朝のミーティングでいたって副島さんからは聞いたんだけど、案件の引継ぎのことがあって……携帯も繋がらないし……」
真山里奈はその日から数日、会社に出社してこなかった。
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