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【小説】ペデストリアンデッキの舞姫と焼けた靴 7

 あ、すみません。まだ営業時間じゃないんですー。 あれ、お客さんじゃないですね? バイトの面接? 違うか、アハ、スミマセン。

 なんですか? 人探し?
 この辺のデッキで踊ってた?  うちにいたキャストの?

 ……ああ、ハイハイハイハイ……。
 知ってるよ、ユキでしょ? 一時よくキャストで入ってたね。お客さんとモメてクビになったけどね。

 てかさ。あのの正体、知ってますか?
 ん? その顔だと知らないんですね。
 見た目めっちゃ可愛いんだけど、実は……なんですよ。

 ね、ビックリでしょ?

 ま、クビになってからのことは、うちもこれ以上分かんない。開店準備あるから、こんなとこでいい?


第三章 (1)


 真山里奈はあるホテルの一室にいる。いる、といってもそれはほぼ彼女の自由な意思ではない。彼女の夫である真山裕貴によって半ば強制的に留められている。

 母の突然の訪問により、意図せずリョウを家から追い出す形となった里奈は、母と顔を合わせたくない一心で早朝に家を出て勤務先へ向かった。
 勤務先で朝のミーティングを終えたあと、通常通り営業へ出ようとしたところで、部長から声をかけられた。

「真山さん、ちょっといい?」

 部長は里奈と同じくキャリア採用で入社し、めきめきと営業成績をあげたやり手の人だ。
 里奈は少し気が重くなった。部長の呼び出しは、十中八九来期に関することか、自身に関する社内の評価だろうと推察できた。

 社内にはいろんな人間がいるが、その多くが里奈にとっては気の抜けない相手だった。それは単に営業成績を競い合いギスギスしている、といった単純な図式ではない。どちらかというと彼らと里奈と協調している。もう少しあけすけに言えば、お互い変にいがみあうよりは、売れる恩は売っておこうくらいの気持ちは持ち合わせている。

 だが、異動・昇格のタイミングは別だ。この時期だけは、それまで親しく話しかけてきていた人物が陰で立ち回っていたり、場合によっては里奈のよくない噂を流していたりと注意が必要な時期になる。

 親しい顔で挨拶を交わし日常の会話をしていても、里奈は相手の腹の内を探った。相手に悪意がない可能性もあるので、礼を欠くことの無いように振る舞いながら、少しでも違和感があれば自身の言動に最大限気を遣うようにした。少なくとも、相手に自分を叩く材料を与えてはならない。

 部長は会議室に入ると、里奈に椅子を勧めた後こう言った。

「真山さん、来期の話なんだけど、あなた転勤できる?」

 転勤? どうやら来期の話らしいが、少し想定から外れた内容だな。そう思った里奈は、部長の顔をまじまじと見つめながら、次を促すように頷いた。

「いや、急なことなんだけど○○支店の営業部の部長が、退職することになったの。……なんでも、ヘッドハンティングらしくてね」

 そう言って部長はため息をついた。そのため息は、自社を退社する者を残念に思うというより、好条件のステップを踏む他部署の部長への羨望のように見て取れた。里奈は部長のため息の真意を探ることに頭が回っていて、部長の次の発言まで〝○○支店〟のワードに意識が向かなかった。

「真山さん、確か地元は○○支店の近くよね?」

 そう言った部長はまさにキラキラとした表情に変わった。〝貴女にいい話なのよ〟そう、おでこに書いてあるような表情だ。
 一方の里奈は、ようやく○○支店が、自身と関係のこじれた夫とのかつての愛の巣の近くであることに思い至った。

「確かに、近い、ですが……」

 ようやくそう返事をすると、部長は間髪待たずに次の言葉を続けた。

「急なことで、部長に代わる人物がいないんだけど……。実務を取り仕切る人間は当然必要なので、会社としては真山さん貴女に部長代理のポジションで異動してもらえないかと! これって、すごいことよ。いまの貴女の役職からしたら一足飛びの出世だわ」

 あまりの想定外に、里奈は驚いた表情のまま、部長を見つめた。その反応を部長は喜びのほうと受け取ったようで、さらに続けた。

「普通はこういう栄転は、なかなか自分の本拠地にはならないものよ。でも貴女はたまたまだけど、ご主人との自宅が近いし、こんないい話はないわ。もちろん、貴女の実力からしても実務・マネジメント双方問題なしとの判断からよ」

 ちょっと待ってください、ありがたい話ですが、少し考えさせてもらえませんか? そんな言葉が出かけて里奈は止めた。会社員にとって、異動の話に拒否権などない。これは正式な辞令の前に一応教えておいてあげるわね、といったスタンスのものだ。

「承知しました。精進します」

 里奈はそう答えるより他になかった。苦い胃液が込み上げてくるのを自覚した。


 午前のアポである軽い打ち合わせを出先のカフェで済ませた里奈は、クライアントを見送ったあとそのまま同じカフェで仕事をすることにした。冷めたコーヒーに口をつけたが、香りも苦味も感じない。そのまま機械的にPCでメールなどを処理した。

——ここまで裕貴のもとへ戻ることに抵抗感があるとは。

 里奈自身が驚いていた。夫とは〝離れて暮らしているほうが良い〟のであって、〝共に暮らすことが嫌なのではない〟のだとずっと思っていた。それは傍から見れば同じでも里奈には大きな違いがあった。
 だが、今日部長の話を聞いて明確にそこに向かうことを尻込みする自分がいる。その事実は認めなければならなかった。

 辞令は拒否出来ない。だが、裕貴と再び暮らすことは考えられない。いっそ神田のマンションは借りたまま異動命令に従い、週末だけ神田へ戻るとか……。そんな無意味な策が頭をめぐっては打ち消し、巡っては打ち消しを何度か繰り返したのち、ようやく彼女は夫との家に戻ることを少しだけ許容し始めた。

 叔父さんのように離婚する気がないのなら、もう一度関係構築に努めるべきでは……。そのような考えに無理やりと自分を押し込めた。
 気づくと手が震えていた。押し込めた考えに反発するかのようにそれは続いた。

 冷めたコーヒーを眺めながら、手の震えを抑えていると、今度はスマートフォンが振動した。メッセージの着信を告げるもので、その相手はまさかの夫であり「出張で都内に来ている。渡したいものがある」と記されている。あまりのタイミングに里奈の手からは一瞬スマートフォンが滑り落ちた。

 しかも今から来れないか、とある。ちょうど午後のアポイントが先方都合でキャンセルとなったところだった。一体これはなんの報せなのか。数分間迷った後、里奈はその連絡に応じることとし、前のりで泊まる予定だというビジネスホテルへ向かった。

 渡したいものとはなんだろう……およそ想像がつかない。離婚届では……? と頭をかすめた。
 いやまさか、だったら〝渡したいもの〟とは言わないだろう。

 思案しているうちにホテルへ着いた。到着を連絡すると、部屋番号が返信されてきた。このビジネスホテルは宿泊者以外でも客室フロアまで上がることが出来る。上がってこいということか、と解釈した里奈はそのままエレベーターへ向かった。

 客室のあるフロアに上がり、番号表示に従い進むとその部屋の扉は僅かに開いていた。オートロックだから開けておいたのだろうか。別にチャイムを鳴らしたら開けてくれればいいのに、里奈はそう考えながら扉を開いた。

 中に、夫の姿はなかった。
 代わりに、テーブルの上に封筒が置かれていた。

 里奈は不思議に思いながら封筒を手にとった。封筒には「里奈へ」と書かれている。渡したいものを渡せなくなったのだろうか...…。だったらなにもこんな手の込んだことをしなくても...…。そう思いながらその封筒を開封した里奈は中身に息を呑んだ。

 封筒の中身はプリントアウトされた3枚の写真だった。

 一枚目:辺り一面真っ赤に染まった夫との〝自宅〟のリビング
 二枚目:赤く染まったナイフ。
 三枚目:夫の顔だけが赤く塗りつぶされた結婚式の写真

 常軌を逸する写真に里奈はしばらく呆然とした。〝赤〟が血なのか絵の具の類いなのかも判別がつかない。いずれにしてもただ事ではない。このメッセージが何を意味するのか、里奈は考えたくなかった。本能が逃げろと言った。これ以上は到底、自分の手に負えない。

「会社に戻らなきゃ...…」

 そう、呟いた。そうだ、私は外回りの途中だった。勤務中だ。ちょうど昼休憩を取っていなかったから、裕貴から受けとるくらいならいいだろうと立ち寄ったのだ。
 封筒を置いて部屋を出よう。そう思った。だが、体が硬直しているかのように動かない。
 深呼吸をした。そして、自分に冷静になるようにと念じた。これがもし、本当に血だとしたら...…放置するべきではない。これだけの出血は下手したら命に関わるのではないか。仮にも自分は妻だ。
 ともかく、どういう状況なのか聞くべきだ。

 携帯を取り出すと夫に連絡をした。ホテルへの到着と今の夫の所在を問う内容だ。裕貴からはすぐに返信があった。

「僕は死にます」

 メッセージにはそう短く記されていた。

 里奈は即座に電話をかけた。裕貴は電話に出ない。コールは留守電に接続された。
 続いてメッセージが再びきた。

「なんで電話してくるの? 僕が死んだら君、嬉しいでしょ」
「そんなことない。いまどこ?」

 しばらくまた連絡が途絶えた。里奈はメッセージを返した。

「話したい。いまどこ?」


 裕貴はオンライン会議のアプリを入れるよう指定してきた。里奈がその求めに応じてURLをタップすると、ぼわっとした光の中に夫の姿が映し出された。

「裕貴!」
「久しぶりだね。写真、みた?」
「……どういうつもり?」
「どういうつもりって、ひどいね。あれ、全部僕の血だよ?」

 そう言って裕貴はカメラに自分の手首を見せた。ミミズが乗っているかのような傷跡がそこに映し出された。

「もっとも、撮影したのは昨日今日の話ではなくちょっと前なんだけど。僕さ、本当に死ぬ気だったんだ。だけど意外と死ねないもんだね。たくさん血が流れたのにさ」

 里奈が言葉を失っていると夫は話を続けた。

「君、神田のマンションに僕の見知らぬ男を飼っているだろう? 
 ああ、勘違いしないでほしいけど、そのことを咎めようとしてこんなことをしてるんじゃないよ。僕だって随分前からそんなことは知っていた。
 君のお母さんは昨日知ったみたいだね。今朝、電話してきて訳わからないこと言って僕に謝っていたよ。別にお母さんが謝ることじゃないって言っておいた。
 死のうと思ったのは、ただ単に自分がこの不遇な状況に居続けることに疲れたから。
 メスを入れるみたいにナイフを手首に入れたらどうなるのか、まずは試してみようと考えた。
 ちなみにその時、君に電話したんだけど、電話に出なかったな。後から接待だったとか何とか言ってたな。忘れたけど。
 思ったより手首からは血が流れて……。それだけ出血するとさ、きついんだ。痛くて朦朧としてすっごい苦しかった」

 苦渋に顔を歪めると、はぁはぁと裕貴は呼吸した。

「……このまま死ねたらそれはそれでいいやという気だったんだけど、とたんに腹が立ってきてね。どうせなら、君の記憶の中に、嫌な記憶を刷り込ませたくなった」

 裕貴はそう言うとニヤリと笑った。里奈は夫の言葉を聞きながら、相手を刺激しないように、それだけを考えていた。裕貴はそんな里奈の心境を察したのか、おもむろにナイフを取り出すと、自分の手首にあてがった。里奈は悲鳴をあげた。

 やめて!
 おねがい!
 ごめんなさい!

 そんな言葉をいくつか無我夢中で画面の相手にぶつけた。裕貴の手首からは一筋、紅いものが流れたが、そこで彼は動きを止めた。


 裕貴は〝自傷を止める〟代わりに、里奈に会社の退職と神田の賃貸マンションの退去を求めた。会社に出した辞表が受理されるまで、ホテルのWi-Fiを利用し、この個人携帯で常時オンライン会議を接続するよう要望した。

――いまさらなんで……。

 そんな言葉が何度も喉元まで出かかったが、里奈はそれを抑えた。ひとまず裕貴の要望を受け入れる〝フリ〟をした。まずは会って話が出来るように漕ぎつけないと、何も始まらない。
 裕貴の要望通り、オンライン会議につないだままホテルに留まることとした里奈は、極力ゆったりとした空気をつくることに努めながら夫と会話した。当初こそ里奈の話に一切耳を貸さなかった裕貴も、次第に自らの思いを吐露するようになった。

 里奈の読みでは、裕貴はおそらくこのホテルの近くにいる。このホテルに宿泊申し込みし、封筒を置きにきたのだから、そこまで遠くはない場所にいるはずだ。場合によっては同じホテル内の別の客室にいる可能性もある。
 オンライン会議で映し出される裕貴の背景はぼかしがかかっており、完全には見えないが、後方の壁紙は同じホテルのように見えなくもない。

 19時を回ったころ、少し落ち着きを見せてきた夫に里奈は入浴をしたい旨を伝えた。夫は少し思案する様子を見せたが、30分くらいならと許可をしてくれた。
 そのままホテルのバスルームに入った里奈は、シャワーの音を立てながら、社用携帯で上司にメールで連絡した。まずは午後帰社出来なかったことの謝罪。理由は家族が救急車で運ばれたこととした。この理由は今の状況を考えるとあながち大嘘というわけでもない。実際、夫は専門医の診療が必要な状況だと里奈は考えた。
 そして、急なことで申し訳ないが家族の看病のため2週間ほど休みをもらいたい旨を追記した。こんな急な申し出が通用するとは思えないが、何かしらの連絡をしておかないわけにもいかない。会社には行けないが業務に関する問い合わせは極力対応する、と打ちながら、いまの裕貴の状況を考えるとそれも自信がなかった。

 ここまで終えて時間がまだ10分しか経過していないことを確認した里奈は、ホテルフロントに行き予約者の詳細を訊ねてみようかと考えた。
 夫に荷物を届けるよう言付かった風で部屋番号を聞き出せないか。もう一部屋の予約があることが、判明しないか……。

 だが、いかにホテルに不信感をもたれずに〝もう一部屋があるか〟を探り当てるか……と考えているうちに、部屋に置いてきた私用携帯から夫のくぐもった声が聞こえてきた。

 里奈はシャワーを止めた。その声に耳を澄ますとぶつぶつと独り言が聞こえる。「なんで」「ぼくは」「こんなはずでは」
 それらは批判的というより、自分を見失った男の繰り言だった。そうなったことに自分が深く影響しているであろうことを改めて思い知った里奈は、フロントへ行くのを止めて、再び私用携帯の前へ戻った。

——これは長く夫と真正面から向き合うことを避けてきた自分への戒めかもしれない

 そう思って相手の言葉に耳を傾けた。それは里奈にとってほぼ修業のようなものだったが、それが今里奈が夫に出来る最善のことだった。
 夫の主張はほぼほぼ同居時代と変わらなかった。妻は基本は家庭を支え夫の働きやすい環境を整えることに尽力すべきである、そのように振る舞う妻に感謝し夫は最大限の努力で家庭に還元するべきだ。

 その〝家庭のかたち〟にそぐわないから里奈と裕貴の結婚生活は次第に亀裂を生じ始めたのだった。里奈は思い知った。やはり私達は共に歩むべきではなかった。
 部屋を血に染め、その姿を相手に見せつけることで自分の意に従わせようなどという暴挙に夫が出る前から里奈はもうついていけてなかったのだ。何故そのことを正直に認め早い段階でお互いの未来のための決断を出来なかったのか……。
 会社から出た異動の話をきっかけに気持ちをうやむやに、少しでも再構築の道を模索した自分は間違っている、とはっきりと自覚した。

 その自覚を腹に持ちながら、里奈は裕貴の落ち着くタイミングを探った。極力刺激を与えず、それでいて最適なタイミングで裕貴の行動を止めねばならない。

 里奈が悩んでいると、オンライン会議に接続中の私用携帯に着信の報せが届いた。相手は母であった。

「裕貴、お母さんが電話してきたみたい……」

 裕貴は電話に出ることを許可してくれた。ただし、オンライン会議からは退出しないでという条件つきだった。モバイルから会議に参加している場合、通話に出ると会議は一時的にカメラオフ・マイクオフ状態となる。それでも構わないと、裕貴は言った。里奈はほっと安堵すると通話に出ることにした。よりによって母からの電話で、裕貴との膠着状態から脱することになるとは皮肉だと思った。

「もしもし」
「里奈? 貴女、今日帰ってこないつもり?」

 母はまだ里奈のマンションに滞在しているようだった。

「……帰るけど。まだかかりそう。……仕事が忙しくて」

 そう答えたものの、仕事を理由にしたと見破られ、母を避けていることを咎められる気がした。ところが、里奈の予想に反して母は沈黙した。

「お母さん、なんかあったの?」

 電話の向こうで母の躊躇が伝わってきた。

「お母さん、先に寝……」
「逮捕されたらしいの」
「え?」

 状況が読めない。逮捕? なんのことだ?

「志朗が逮捕されたらしいの」

 母は告げた。里奈の叔父、志朗が昨晩逮捕された。詳細は分からないが弁護士から連絡があったらしい。離婚して親族が姉である母しかいないため、母に連絡が入ったようだが、志朗との面会は里奈に行ってもらいたい。

 昨晩と言えば里奈ともんじゃ焼き屋で会ったばかりである。にわかには信じられないが、母が嘘をついているようにも思えない。

 里奈は通話を切ると、すぐに裕貴に事情を告げた。里奈の言葉に半信半疑な裕貴に里奈は心配なら同行してほしいと頼んだ。裕貴は不承不詳ながらそれを受け入れた。


つづく

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