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【小説】ペデストリアンデッキの舞姫と焼けた靴 10

第四章


 ユキは大学を辞めた。
 ガールズバーは馬渡に殴られた傷の治療で入院している間に、無断欠勤でクビになっていた。
 だからそのまま地元に戻り、父の言いなりになって家業を手伝うことにした。

 もう、何もかもがどうでも良かった。母が居ない今、わざわざ東京にいる必要も、馬渡みたいなおじさんに媚を売る必要もない。
 駒場が心配をして何度か帰省ついでにユキのところへ来たが、ユキにはただこう返すことしか出来なかった。

「駒場サンのこと巻き込んでゴメン」

 サユがいつか言った「シャンパンの泡みたいなものだ」それをユキは何度も反芻した。いともたやすく、自分の心は消えた。
 この世にいないと思っていた母が生きていると知り、苦行の中にいる母を救い出してあげたかった。それだけがユキの原動力だったので、いまの自分には何もない。ただ黙々と祖父の会社でその従業員に従い仕事をこなしては味のない食事をして床につく、日々はその繰り返しとなった。

 そんな日々に転機が訪れたのは、取引先情報のデータベース化に着手していたある日だった。大学で情報工学を学んでいた期間は短いが、それでも祖父の会社の従業員たちよりはプログラミングなどに明るかったユキは、父の勧めもあり事業の効率化を図る職務に少しずつ携わっていた。

 馬渡志朗 マワタリシロウ

 取引先名簿にこの名前を見つけたとき、ユキは一瞬何かの見間違いかと思った。一時期はこの名前を自分の中で意識しない日は無かった。特定して、母へのバッシングを止めさせるため、何度も何度も検索をした。

 その馬渡の名前が、何故うちの取引先名簿にあるのか……。
 思えば、馬渡から殴られて入院した日、父は

「馬渡と関わるのはやめろ」

 と言った。あのときは傷の痛みで流してしまったが、何故父は馬渡の存在を容易く知ることが出来たのか違和感はあった。
 取引先であるということは、馬渡の言っていた副業である〝便利屋〟稼業に、祖父あるいは父が何か依頼を行っていたということになる。

 ユキの脳裏には馬渡が突如来店しなくなった頃に、朧気に見え始めていた事の真相が唐突に呼び起こされた。

 ユキは昔、〝マッチポンプ〟という言葉を聞いたことがあった。
 馬渡は執拗に母へ誹謗中傷を行い、その裏で父や祖父からそのネガティブ情報を消す役目を請け負っていたのではないか、と考えていた。

 しかしそこに一点だけ疑問が残っていた。
 馬渡の行う誹謗中傷は数年に亘って続いていた。ネガティブ情報削除を依頼したにも関わらず、数年も収拾がつかない状況に、父はともかく祖父が許すわけもない。また、祖父は母のことを「当家には何の関わりもない女」と言っていた。コストをかけて依頼するとも思えない。

 だが今、ここに確かに会社との関わりを示す証拠が出てきた。これは見過ごすことは出来ない。


 ユキは父の書斎へ向かった。大学を卒業し家に戻ってから、父との会話はほとんど無くなっていた。

「ちょっといい?」

 父は普段話しかけてこないユキが声をかけてきたことを訝しむような目をした。

「率直に聞くけど……マワタリシロウはうちの会社とどういう関係?」

 父はため息をついた。

「おまえはまだそんな奴のことを調べているのか」
「調べてないよ。うちの取引先にいたから。ただ聞いているだけ」
「……。あれは便利屋みたいなもんだ。もう取引すらない」
「その便利屋に、お母さんの記事を消すよう依頼してたの?」

 父はその質問に答えなかった。

「ちょうどいい。ちょうどおまえに話があったんだ」
「話をはぐらかさないで」
「私はあと半年の命だ。」

 ユキは瞬時には父の言葉の意味が理解できなかった。

「会社のことは、しばらくはじいさんの言うことをよく聞いてやれ。じいさんには逆らうな。この家ではあの人が絶対だ。逆らわないでいれば、身内は悪いようにしない人だ」
「……なに言ってんの?」
「私名義の不動産その他については、弁護士に遺言書を依頼してある。基本的にはおまえが相続人だ」

 父はここまでを言い終えると書斎にあるラタンチェアに座った。

「死ぬの?」
「残念ながらそうだ。膵臓がんらしい」

 なんでいま、父はこんなことを言い出したんだ。母も死に、父も死ぬのか。脳内が状況を受け入れられない。

 その後、ユキが父と交わした会話をユキは断片的にしか覚えていない。確かなことは父の話す内容はユキにとって受け入れがたい内容で、事態を察した家事代行の人が激高したユキを取り押さえに部屋に踏み込んできたほどだった。

 父はその半年後、本当に癌で亡くなった。

「ユキ、久しぶりだな」

 渋谷で1年ぶりぐらいに駒場と会った。結局、父の死後、ユキは祖父の会社を辞めた。父のことも母のことも何も思い出したくなかった。地元を離れ、学生時代のアパートの近くにマンションを借りた。
 定職には就かなかった。幸い父の残した遺産があったユキは、適当なその日暮らしをしていても、どうにでもなった。

 大学時代はおろか、高校時代の友人・知人ですらほとんど接触しない日々を過ごしていたが、駒場だけはユキの中で数少ない連絡をとる人物となった。
 その駒場から久しぶりの連絡があったので、少しは陽にあたるくらいの気持ちでユキはその誘いに応じた。

 駒場はユキは地元へ戻ってから、馬渡の塾でのバイトを辞めていた。

「馬渡はあのあと離婚して、機嫌が悪くてさ。他のバイト講師とかに理不尽な叱責を浴びせることもあって、何人もバイトが辞めてさ」

 今となってはもうどうでも良かったが、馬渡が少なくとも不遇な日々を送っていそうなことは、ユキに少しの心の平穏をもたらした。

 その夜、ユキはバイトアプリで新しい仕事を探した。見つけた仕事はただひたすらに子供のいる家庭に訪問して、教材を売る仕事だった。給料が良かったから。ただそれだけの理由で選んだ。
 ユキはガールズバーのバイトのおかげなのか、初対面の人と話すことになんの躊躇もなかった。にこやかに微笑んで相手の懐に入り、くだけた会話をして教材をバンバン売った。

 すぐに、正社員にすると言われた。
 どっちでも良かったが、嬉しそうな顔をしたらその「正社員にする」と言った本部の偉い人が満足気な顔をしたのが面白かった。
 正社員になったら、歩合給の占める割合が増えて給料があがった。もっとも、仕事がとれないとバイトより月給が下がる人もいるみたいで、ユキの職場は人の入れ替わりが激しかった。

 ある日、次の訪問先を地図アプリで確認していると、目の前によく見た顔が飛び込んできた。
 馬渡志朗だった。
 ユキはとたんに殴られた恐怖が蘇ってきた。が、ひとまずは冷静になった。

 今の姿のユキを見ても・・・・・・・・・・馬渡は気づかないだろう・・・・・・・・・・・

 しばらく馬渡を離れたところから追うことにした。それはユキにとってほんの軽い気持ちだった。離婚をしてバイトにも辞められつまらなそうな生活を送っている中年を見てやりたいくらいの気持ちだった。

 馬渡は駅前の喫煙所で一服を始めた。誰かを待っているのか、時折スマートフォンを眺めている。
 そのうち遠くからやってきた女性を目に留めると片手をあげて煙草の火を消した。

 背がスラッと高く艶やかで長いストレートの黒髪をもつその女性は、馬渡の横に並ぶと笑顔で話しかけた。雰囲気的にはクールな印象なのに、くしゃっと笑う印象は可愛らしい女性ひとだった。服装もいかにもビジネスっぽいスーツ姿なので、ナイトワークの同伴っぽくもない。

 馬渡がその美人を帯同して飲食店に入っていくのを見てユキはしばらく立ち尽くした。胃の辺りがもぞもぞとしてくるようだ。怒りなのかやるせなさなのか、自分でも分からない。

 あの女性が馬渡の恋人なのかどうかは分からない。でも少なくとも馬渡は楽しそうで、人生を謳歌しているように見えた。母を間接的に死に追いやったようなものなのに。
 見たくなかった。少しは痛い思いをしていると思ったから見たかったのだ。あんな楽しそうにしている姿を見たくはない。

 ユキの体内にドロドロの汚水が溜まっていく。その水は浄化されることはなくどんどんと蓄積していくようだった。


 翌日からユキは馬渡の身辺を調査し始めた。
 仕事は訪問営業なので、外回りをしながら適当にこなすことが出来た。多少受注率に影響して月給が下がったが、もともと仕事など半分どうでもよかった。
 馬渡の生活パターンは一年前から変化していなかった。昼間は塾の教室長として働き、夜は適当に車を走らせている。ただ、よくよく注視していると、時折人と会っているようだった。副業の顧客なのか、なんなのか分からないが、カフェなどで小一時間程度のことが多かった。

 街で目撃した、黒髪の女性は馬渡の姪だと分かった。離婚して子供たちと面会すらさせてもらないと駒場から聞いていたのに、あんな姪っ子が時々娘のような距離感で接しているなら、それほど寂しくもないだろうとユキは思った。

 その姪のことが気になり、ユキはある日尾行することにした。姪は都内の外資系保険会社に勤めていた。神田のマンションに暮らしている。ユキはそのマンションの名前と所在地を控えて、その日は帰宅した。

 マンションの情報を控えて帰ったのには訳があり、ユキはそのマンション名になにか聞き覚えがあるような気がしていた。
 自宅に入るとパソコンを立ち上げて、祖父の会社のデータベースにアクセスした。会社は退職扱いになっていたが、たまにデータベースがらみのことで連絡がきてちょっとした不具合の修正などは請け負っていた。

 予感は的中し、そのマンションは会社の保有不動産のひとつだった。ユキは真夜中に大笑いしはじめた。笑いが止まらなく涙まで出てくる。

 馬渡志朗は取引先で、その姪とは物件のオーナーと借主だなんて、ここまで関係が深いともはや笑えてくる。
 数年に亘り自分はひたすら母を誹謗中傷する相手を見ず知らずの何かだと思い込みひたすら闇の中を探していた。けれど、その相手は自分の身内の中にいた。これが笑わずにいられようか。

 ユキはその日から馬渡の姪『真山里奈』に近づくことを計画した。


つづく

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