【小説】ペデストリアンデッキの舞姫と焼けた靴 8
第三章 (2)
翌日の朝、里奈はさっそく母から聞いた弁護士に電話をかけた。
叔父の志朗に何が起きたか分からないが、一刻も早く面会したい思いがあった。少々ぶらっきぼうなところもある志朗だが、里奈にとっては上京後の親代わりといっても過言ではなく、母よりも親身になってくれた優しい叔父だった。
その叔父が逮捕など、何かに巻き込まれたのではないか。
「弁護士の時東です。真山里奈さんですね? ご連絡についてはお母さまから伺っております」
弁護士は里奈から電話が入ることを予期していたようだった。簡潔な挨拶ののち早口でこう言った。
「ご面会の件ですが、残念ながら本日はまだご面会できません。叔父様は一昨日の夜、逮捕されましたのでこれから検察官送致がされます。釈放されるか勾留が決定して接見禁止にならなければ面会できますが、少なくとも今日、明日はご面会は難しいものと思います。私どもとしては、まずは勾留されないこと。仮に勾留されたとしても接見禁止とならないよう尽力します」
すぐに面会が出来ると思っていた里奈はこの話に事態の深刻さを感じた。里奈はまずこの弁護士の時東に会うこととした。叔父が何をして逮捕されたのかそれを知りたかったのだ。
意外にも夫の裕貴は、弁護士からの状況を説明すると弁護士と会うことに了承してくれた。里奈の携帯のGPS情報を後で共有することといった条件をつけたが、ホテルから出ることを止めないし、自分は同行はしないことにするという。安堵した里奈はオンライン会議を退出すると思わずホテルのベッドに後ろ向きに倒れこんだ。昨日の昼過ぎからの張りつめた糸のようなものから少しだけ解放された感覚を得た。
里奈の申し出に、時東はすぐさま応じてくれた。指定された八丁堀の喫茶店で待つと、電話口の印象とは異なる小柄で柔和な印象の女性が現れた。
「叔父様の逮捕容疑は、詐欺です。被害届の提出があり、警察が動いたようです」
「なんの詐欺ですか?」
「叔父様は本業の個別指導塾の経営のほかに、ネット上の誹謗中傷やネガティブな情報を消すといった仕事を請けていたようです。ですが、実際は誹謗中傷そのものが叔父様がでっちあげたものだった。容疑の概略はそのようなものです」
誹謗中傷を消す? 里奈はその仕事内容にいまひとつピンと来なかった。実際にそのような仕事を請け負う業者がいることは知っている。だが、叔父がその仕事を個人で請けていたことには驚いたし、本業がある中でそのような事をする必要があったのかも疑問に思った。
――小遣い稼ぎにやっていた副業のあぶく銭
里奈はもんじゃ焼き屋での叔父の発言を思い起こした。
「詐欺自体は初犯で悪質でなけれは示談交渉の余地もあるのですが……」
里奈の心境を察しているのかいないのか分からないタイミングで時東は口を開いた。
「誹謗中傷の削除請求自体がそもそも弁護士法違反の可能性もあります」
「弁護士法違反?」
「非弁行為といって、弁護士以外の者が報酬を得る目的でそういった法律事務を行うことは弁護士法の違反になるのです。
叔父様は〝便利屋〟と称して、複数こういった案件を請け負っていたようで……。ひょっとすると詐欺も複数ある可能性があります」
叔父さんが? 余罪? いくら離婚で養育費などが必要だったといえ、そこまで犯罪に手を染める必要があったとは思えない。自分より少し若いであろう時東弁護士の真剣なまなざしに反し、里奈は状況が整理できず戸惑ったまま曖昧に頷いた。
「しかしながらこの時東、叔父様の弁護に全力を尽くしますので! ご不安もあろうかと思いますが、まずは逮捕容疑の減刑のためにも被害者の方との示談を成立させられるかどうかにかかっております」
時東弁護士の話によると、被害者とは連絡がついているという。里奈はそれ以上何も言えなかったので、弁護士に一任することとした。
翌日時東弁護士から被害者との面会を行った旨の連絡が入った。被害者は都内在住の自営業の夫婦であり、志朗からの謝罪と詐欺によって払い込んだ被害額の弁済と慰謝料があれば示談に応じないこともないといった態度を見せているという。
「ただ……」
時東弁護士の曇った表情を里奈は無言で見た。
「ただ、被害者ご家族が被害に気づき警察に相談するに至ったきっかけとなる出来事が、叔父様がある元有名女優の誹謗中傷に関与していることを知ったから……ということらしく。それまで信頼していた叔父様への不信感に繋がり、度重なる身に覚えのないご自身への誹謗中傷も仕組まれたものではないかと感じたそうです。
その後私が接見した際に叔父様はこの点を明確には認めませんでしたが、被害者ご家族は警察にも説明されたとのことです」
有名女優の誹謗中傷?
ますます理解が出来ない。ネットの誹謗中傷など、時間を持て余した人間のやることではないのか。
それとも、叔父には自分の知らない一面があったのだろうか……。
自ずと眉間に皺が寄った里奈に、時東は取り繕うようにこう言った。
「もちろん、罪の内容・重さに関わらず私どもは依頼人である叔父様を全面的に弁護いたしますので。そこはご安心ください」
喫茶店の窓から西陽が入り、時東弁護士の横顔を照らした。プロとして仕事に徹しているその顔にも少しの表情の揺れが見て取れた。
ネットで誹謗中傷するなんて、最低の行為だ。ましてやそれを仕組んで詐欺など……。まだ若く真面目そうなこの時東弁護士の手に負えるのだろうか。
里奈の内面に沸き起こった叔父に対する不信感と、必死にそれを否定する気持ち、そして目の前にいる若い弁護士への心もとなさ、それらがぐちゃぐちゃと混ざり合い、里奈はまた胃液があがってくるのを感じた。
ホテルへ戻ると、夫の裕貴に今日の行動のGPS履歴を見せた。画像で送ると加工ができるということから、オンライン会議に繋ぎ、画面で共有するという手法を取らされた。
――私のほうがよっぽど犯罪者みたいじゃないか。
里奈は一刻も早くこの状況を打開したいと考えた。会社を休んで2日目だ。上司からは何も連絡がない代わりに、人事部から休暇期間が長引いた場合の介護休業に関する案内のメールが届いた。こんなうさんくさい理由でもいきなりクビにされるわけじゃないんだな、と里奈は自嘲気味に思った。
夫の〝聴取〟が一通り終わると、里奈は母に弁護士とのやりとりを報告したい旨を話しした。そして、その後出来れば眠りたい、と。
2日間の行動の成果なのか、裕貴はそれを了承してオンライン会議を終えた。
母に電話すると、神田のマンションからは帰ったようで鍵はポストに入れておいたと告げられた。里奈は内心ほっとしながら、弁護士から聞いた状況を報告した。誹謗中傷のくだりになると、母は電話口で笑い出した。
「ありえないわね! 昔からバカだと思ってたけど、いい中年にもなってそんな事してんの? ……もう、縁を切りましょう。弁護士の話ももう聞きに行かなくていいわよ」
「弁護士さんが被害者とのやりとりもしてくれて、示談に持ち込んで不起訴かせめて減刑に持ち込もうとしているから、そういうわけにも……」
「やってらんないわよ! だいたい前の離婚のときも元奥さんに菓子折り持って行ったり、あいつには散々世話を焼かされているのよ。大した男でもないくせに不倫なんて冗談もたいがいにしてほしいと思ったわ」
フンっと母は電話越しにも聞こえるほど鼻から空気を出した。
「あれは別に、不倫じゃなかったらしいけど」
「別にどっちだっていいのよ。迷惑を被っているに腹がたつの。あの元奥さん、ほんとすごーい剣幕でうちにも来たのよ?
で、自分は未だに不倫してた女優の誹謗中傷して稼いでるなんて、ネタにしてもあまりにもお粗末」
あまりにもさらっと母は言ったので、里奈は一瞬聞き逃しそうになった。
「え?」
里奈の返しに母は一瞬の沈黙をした。
「まぁ、貴女も裕貴さんのことをちゃんと大事にして……」
「お母さん、志朗叔父さんが何してたのか知ってるの?」
再びの沈黙。
「お母さん?」
里奈は翌朝、時東弁護士に電話した。母が志朗の誹謗中傷について知っていたことを伝えるためだ。母によると数年前の法事で集まった際にスマートフォンで書き込みしているのを目撃してしまったらしい。その場で問い詰めたところ「依頼されて仕方なくやってる」と回答した、という。
時東弁護士にその女優の名前を伝えると、時東弁護士が把握している情報と合致した。母が目撃したのがおよそ8年前だった。実に8年も前から志朗がそのようなことをしていた事に里奈は衝撃を覚えていた。
「あの……叔父は何故そのような事をしたのか話したのでしょうか。母の話によると『依頼されて行った』と言ってるようなんです」
「……叔父様は女優さんへの誹謗中傷のほうは言葉を濁して語ろうともしません。現状、逮捕容疑とも別件にはなりますし……。
あと……実はやはり叔父様は勾留が決定しました。そのためかははっきりとはしないですが、叔父様からは『これ以上、姪を巻き込まないで欲しい』とのお話がありました。当初は依頼されていた里奈さんとお母様への報告も止めて欲しいとのことですので、私どもは依頼人の求めに従うこととなります」
「え? 叔父からそう話したのですか?」
「残念ながらそうです。
今日は、里奈さんにそのことを伝えるための了承をいただいてますが、これ以降は私からはご連絡いたしません。ご承知おきください」
時東弁護士は簡潔にそのことを伝えた。里奈が返す言葉も思いつかず逡巡していると、失礼しますと電話は切れた。
あの志朗叔父さんがそのようなことを言うのかと、里奈は信じられない思いのままスマートフォンの画面を眺めた。そもそも、詐欺のことも何もかも里奈にとっては寝耳に水で、正直に言うと理解が追いつかない。
その夜、里奈は夫の裕貴に嘘をついた。
「叔父さんから頼まれたので、明日しばらくホテルを空けるけど、調べることを調べたらすぐに戻るね」
里奈は日中、志朗が誹謗中傷していた女優のことをインターネットで調べた。女優としてのキャリアをスタートさせた矢先のスキャンダル、そしてその後の踏み切り事故に至るまでほとんどの情報が里奈の持つデバイスからもたらされた。踏切事故が起きたのは実に14年も前の話だった。にも関わらず、ほんの2年前くらいまで誹謗中傷は続いていた。里奈は次第に背筋が寒くなるような違和感を覚えた。
彼女は道を違えた。それは直情的な性格がゆえの浅はかさもあるだろうが芸能人というある意味孤立した環境がもたらしたものという気もした。最後の踏切事故は判断ミスでは片づけられないという人もいるだろうが、それでも決して彼女が取り立てて悪意をもって引き起こした事ではない。彼女がするべきことは法律に基づき罪を償うことだと思う。
だが、彼女に対し世間が下した鉄槌は数多の処刑人が長年に亘り罰を課し続ける過酷なものだった。それは私刑でありリンチのようなものだ。
叔父の志朗が関わっていたことの全容は掴めず、かつ志朗が自分への関わり自らの意思で止めた。あと、里奈に出来ることは自分なりにこの事件を調べることだった。
だから、裕貴には嘘をついた。これ以上、ホテルに引きこもり毎日オンライン会議で夫に腫れ物に触るように接していても事態は変わらないように思えた。
裕貴は自宅へ戻ったようだった。画面はかつての部屋が映し出されていた。自宅へ戻れば対面して話が出来るのだ、ということは里奈に少しの余裕をもたらした。
翌日の朝、里奈はホテルを出ると特急電車に乗車した。3時間ほど乗車し、駅でバスに乗り換えた。事故現場の最寄りの停留所に到着し、帰りの時刻表を見たところ次は午後までなかった。里奈はレンタカーを手配しなかったことを悔やんだ。自らの地元と同じくここでも乗用車がなければ移動すらままならない。
停留所から事故現場の踏み切りまで15分ほどかかった。
私鉄の特急とJRとが平行するように運行しているので踏切幅が広くなってしまうようだった。
事故があったためなのだろうか、踏み切りの途中には「踏切内とまらない」という注意看板が掲示されていたが、紫外線と雨風にさられ文字は薄れていた。
実際に歩いてみて分かったが、踏切に進入する手前の道路はわずかであるが傾斜していた。手前での一時停止を行わず進入してしまいそうな地形になっていた。
里奈は事故のあった踏み切りをしばらく眺めていた。叔父が誹謗中傷していた元女優の家はここから車で近いような記事を見たが、実際の場所はさすがに分からなかった。
そもそも、と里奈は考えた。仮に自分がその女優の家の場所を知っていたところで私はどうするつもりなのだろう。
まさか、叔父が逮捕され別件ではあるが捜査の進行中に、余罪と疑わしき女優の件で親族と接触するわけにもいかない。そう考えると自分はただ無闇にここへ来ただけとなり、里奈は不甲斐なさを感じた。
とはいえ復路のバスまで時間がまだあるので、里奈はあてもなく周囲を歩いてみることにした。途中、農作業に従事するおばあさんと遭遇した。里奈は心持ち道を空けるように避けると、一度は通りすぎたおばあさんが声をかけてきた。
「おめーはどこの人なん? 見かけねえ顔だね」
里奈はじわりと背中に汗が流れるのを感じた。今、自分の正体を明かすことは叔父にとってかなりのリスクとなる。言葉に詰まっているとおばあさんは引き返し戻ってきた。何かを言わなければ不審者と思われる。
「あの...…私はライターです」
「ライター?」
おばあさんはますます眉間にシワを寄せた。
「全国の踏み切り事故を調べておりまして...…」
「踏み切り事故?」
おばあさんが14年前の事故を知らない可能性もあった。それならそれで、そのまま立ち去れば良い。
しばしの間があり、おばあさんは思い出したように顔を上げた。
「ああ! おめマスコミか」
おばあさんはそう言うと、促してもいないのに当時の事故のことを語りだした。事故のときに、車から脱出するよう叫んだのは近所の倅だった。事故処理にここら辺では考えられない騒ぎとなった。
「あんときは子供が可哀想だったねぇ」
「お子さん...…ですか?」
「外聞が悪いからと奥さん追い出して、子供にはお母さん死んだことにしたんだもの」
子供...…。里奈は昨夜インターネットで調べた情報を思い起こした。確かに記事には資産家と結婚して一子をもうけたと書いてあったかもしれない。
「確かに大事故ではありますけど、そんな追い出すような...…」
おばあさんは近くのベンチに腰をおろすと、追い出されたのは仕方なかったかもしれない。あの家はこのあたりの大地主であのお嫁さんは明らかに浮いていた。あんな事故を起こしたからおめぇみたいなマスコミなんか殺到してね、と語った。
でも、何も死んだことにしなくてもねぇ、最後にそう言うとおばあさんは家のおおまかな場所を教えてくれた。
里奈は礼を言うと時計を見た。今の自分に出来ることなど無いに等しいが復路のバスまでの時間もあり、その家の近くまで立ち寄ってみることにした。外観の特徴は先ほどのおばあさんが教えてくれたので、道なりに里奈は進み始めた。
遠目におそらくあれだろうと思われる家が見えてきたところで、一度里奈は立ち止まった。その後再び足を進めた。ここまで来たので、表札だけ見て帰ろうと考えたのだ。
ところが、家の玄関が目に入り、あと数十メートルのあたりで、里奈は肩に強い衝撃を覚えた。驚きとともに小さな悲鳴を上げた後、誰かが強い力で自分の肩を抑えていると気づき里奈は後ろを振り返った。
「あんた、この家にいくのはやめておけ」
そこには、一週間ほど前まで里奈が一人暮らしする自宅へ居候していた整体師のリョウがいた。
お気に召したらフォローお願いします。ツイッター(@tatsuki_shinno)でも呟いています。