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【小説】ペデストリアンデッキの舞姫と焼けた靴 9

第三章 (3)


 リョウは里奈の動きが完全に静止したのを見て、肩を掴んだ手を離した。

「なんで……?」

 里奈はそれ以上言葉が続かなかった。脳内で眼前の男がつい数日前まで自宅に居候してた整体師であるとリンクしない。リョウの顔をした別人ではないかとさえ考えた。

「やめとけ」

 リョウは低い声でもう一度言った。

「なんで、ここにいるの?」

 里奈の質問にリョウは家のほうに視線をずらすと、場所を変えようと目で促した。

「あの家の奴らにあんたは関わるな」

 さきほどの踏み切りの近くまでやってきて、リョウは短くこう告げた。そう言われてハイわかりました、と里奈は受け入れることは出来ない。

「あなた、何者なの?」

 里奈からはごく自然にその追及が口をついて出た。叔父の志朗が〝何かしら関わりを持つ〟あの家の前に何故この男がいる?
 リョウは笑い出した。

「何者って、いまさら聞くのか。この前まであんたの家で暮らしてただろ」
「怪我が治るまで置いてあげてただけよ……」
「そんな理屈、あんたの母親もあんたの旦那も誰も納得しねぇだろ。怪我はとっくに治って元気に毎日あんたの身体メンテしてたじゃないか。
 旦那はキレて上京してきたか?」

 からかいのような笑いを含みながらリョウは聞いた。リョウが夫のことに触れてくると予想していなかった里奈は内心動揺した。

「……あなたに関係ないでしょ?」

 思わずそう返すと、リョウは笑うのをやめた。

「だよな。関係ない。だからあんたも、あの関係ない家に興味本位で近づくな」

 最初の低い声でそう言った。

「そもそも、あなたは何を知っているの? あの家とどういう関係?」
「警告はしたからな」

 リョウは里奈の質問を遮りニコリともせずこう言うと背を向けて線路沿いの道を歩き始めた。
 待って! 背中に向かって言葉を投げかけたが、リョウは振り返らない。追いかけようと足を踏み出した瞬間、里奈の携帯電話が震え始めた。
 画面をみると、夫の裕貴だった。
 そのまま3秒ほど固まったのち、里奈は電話「応答」ボタンを押した。

「もしもし」

 夫は何も言葉を発しない。

「もしもし? 聞こえる?」

 夫は返事をしない代わりに、物音だけが電話口に聞こえた。
 ガサガサ……ザクザクザク。

「ねぇ、なに? どうしたの?」
「...…どうもしないよ。ただ掘ってるだけ」
「掘ってる?」

 ざわざわと嫌な汗が額をつたった。

「君と僕の墓」
「裕貴……」

 里奈は電話を切るとバス停へ向かった。復路のバスに乗り、駅から特急に乗ると裕貴との自宅へ向かった。


「あれ? ホテルをでちゃダメって話したのに、なんで来たの?」

 久しぶりの自宅へ入るとよれた襟のTシャツにジーンズの夫が出迎えた。全身ドロドロで爪の中まで土が入っていた。
 リビングの窓から外に視線を移すと、ウッドデッキの先の庭にぽっかりと穴が空いている。

「裕貴、一緒に病院にいこう」

 ここに来るまで里奈は何が正解なのかをずっと考えていた。夫は明らかに様子がおかしい。自傷行為を繰り返し、君と僕の墓を掘っているという精神状態の彼にどう接するのがいいのか迷いはあった。初めから専門家に相談するべきなのではないかと一瞬考えた。だが、里奈はまず一人でここへ来ることを選んだ。

「なんで? 僕は元気だよ」

 予想通りだが、裕貴はそう言って、相変わらず手についた土を洗おうともせず立っている。
 里奈は裕貴の斜め前に腰を下ろした。心理学的にそのほうが相手を刺激せず話ができると聞いたことがあった。裕貴はのそりと近づいてくると自分も腰を下ろした。

「あの……3年前あなたと私の考えに相違があったのに、真剣に向き合おうとしなくて上京してごめんなさい」
「君は僕が嫌いになったの?」
「嫌いになったわけじゃない」

 そこで、里奈は続きの言葉を言い淀んだ。嫌いになったわけではない、けれど、夫から求められていることに応えられる気もしなかった。
 仕事をもっと積極的にしたい思いもあったし、このままでは自分がこの町で夫の妻としてだけ生涯を過ごすことになりそうな気がした。
 だから夫の気持ちと向き合うことから逃げた。

 でも、裕貴にそのままそれを伝えていいのか分からなかった。

「あなたがここまで追い込まれる前にちゃんと帰ってきて話をすればよかったと思っている」

 しばらくの間があった。里奈は裕貴の表情が掴みきれず内心不安を覚えた。

「なんか誤解しているようだけど、僕はいたって普通だし、追い込まれてもいない。どちらかと言えば、里奈、君の方が一人で家を出ていって東京でマンションまで借りて様子がおかしいじゃないか。しまいには男まで自宅にいれて...…。それってもう立派な不貞行為だよ?」

 沈黙は肯定だ、そう思ったが里奈からは言葉が出なかった。リョウとはいわゆる〝関係〟はない。関係はないが、そう思われても反論の余地はないとも思った。実際里奈自身もそんな言い訳は通用しないであろうことをどこかで理解していた。

「でも、僕は離婚しないよ。君が改心して仕事を辞めてこの家で慎ましく暮らすと約束するなら、いままでのことは不問とするよ」

 二人の間に横たわる溝は深くどちらかがどちらかに渡ることはもはや困難に思えた。

「裕貴...…誤解を招く行動をとったことは謝る。けど私は仕事を完全に辞めることは現時点では考えられない」
「どうして? 仕事なんてそんな拘ることじゃないでしょ? 生活するための収入なら僕稼ぐから」
「あなたから見ればそうでも、私にとっては生活の一部だし、社会との関わり」
「社会との……」

 そう言って裕貴は黙った。その沈黙はしばらく続き、里奈は夫が自分の言葉を受けて〝考えてくれている〟のだろうかと一瞬思った。
 だが次の瞬間、状況は一変した。
 裕貴はゆらりと立ち上がると、その動作からは想像もつかないスピードで里奈の腕をつかんだ。

「そうやって僕以外のところにばかり目をむける……」

 里奈は瞬時に掴まれた腕に意識がいき状況をうまく把握出来ない。次の瞬間、裕貴はそのまま里奈の腕を無理やりひっぱりあげると引き摺るようにウッドデッキのほうに連れて行った。

「やめて、痛い」

 里奈がそう言うと、裕貴は掴んだ腕を乱暴にウッドデッキ側に放った。里奈はそのまま反動でウッドデッキに倒れこんだ。身体にもたらされた衝撃が痛みに変わり、自分の身に起きたことへの驚きとともに、里奈は初めて自らの危機的状況を感じた。夫のほうを見ると、ウッドデッキから裸足のまま庭へ降り立ち、ちょうど太陽を背に立っている。

「もう、一緒に墓に入ろう。だいじょうぶだよ。来世でまた逢える」

 そう言って再び里奈を掴むと、背後に作られた大きな穴へ強い力で引っ張られた。里奈は思わず絶叫した。

「やめて! 離して!」

 裕貴は手を緩めない。強い力でそのまま引っ張った。

 庭にウッドデッキがある家に子供の頃から憧れがあった。結婚して、そろそろマイホームを...…と話が出たとき、里奈はキッチンのレイアウトよりも庭に拘った。掃き出し窓からのウッドデッキ。よく晴れた日にはウッドデッキに腰掛けコーヒーを飲んだり、休日にはそこでビールを飲むのもよい。
 ウッドデッキの色や庭とのバランス、細かいところまで念入りに打ち合わせをした。その話を聞いた友人たちは皆「そこなんだ!」と言って笑った。

 そのウッドデッキに覆い被さるように、夫の裕貴が倒れている。里奈の手には万が一のためポケットに忍ばせていた催涙スプレーがあった。上京したとき叔父の志朗が防犯で持っておけとくれたものだ。
 夫の精神状態を考え、ちょっとしたお守りのつもりだった。里奈はそのお守りを使うハメになった。そして結果、夫は催涙スプレーの刺激にのけぞり倒れて頭を打った。

「裕貴...…」

 意識を失った夫を見て、里奈は救急車を呼ばなければと思った。たかだか3桁の番号を打とうと思って、手が震えてうまく打てない。スマートフォンを落下させ、里奈は声をあげた。悲鳴とも泣き声とも違う形容しがたいその声とともに両目から滴り落ちたものが汗なのか涙なのか分からない。

 社会人になり仕事を始めてから、里奈は泣くことなどなくなった。人前ではおろか一人のときでも涙は流さなくなった。泣くことは自分の弱さを外へ出すことで、泣く暇があれば努力をすべしと自らを律してきた。
 だからこそ、自分を解ってほしいといった感情にも蓋をした。自分は夫の気持ちに向き合っていないと思っていた。でも実際には自分の気持ちにも向き合っていなかった。

 どうして、こんなことになった。
 なにを間違えた。
 常に努力していたはずなのに、どこかで何かを踏み外していた。
 頼っていた叔父は逮捕されてしまったし、関わっていたことすら全く見えない。

 不安とともに湧き上がってきた感情をコントロールできない里奈は、そのまま外を出た。いつの間にかすっかり陽は落ちて暗くなっていた。ようやく救急要請を行うと、裕貴の姉に連絡をした。

 救急隊の到着を待ち病院まで付き添ったのち、合流した義姉に全ての経緯を告げると、自分はもう裕貴さんと共にはいられないと話をした。
 義姉は驚きと動揺を隠せない様子だったが、次第に落ち着きを取り戻した。二人の様子に数年前から違和感は感じていたという。

 今日はこちらのことは何とかするので神田の家に帰って良いと言われた。
 義姉の本心は分からないが、少なくとも表面上は話を受け止めてくれたことに里奈は心から安堵した。
 この数日、心身ともに疲れ果てていた。一時的に開放されただけで事態は何も解決していないが、ともかく眠りたかった。

 里奈は深夜に神田のマンションに到着すると、まさに泥のように眠り、翌朝の昼過ぎに目が覚めるまで12時間近く眠った。

 目が覚めると里奈は時刻を見るためスマートフォンを手にとった。裕貴から連絡がくる前まで、踏切事故と叔父が誹謗中傷していたという女優のことを調べていたため、ブラウザを起動するとその検索結果が再び表示された。

 裕貴とのことであまりに負荷がかかり一瞬頭からも抜け落ちていたが、踏切事故の現場でこの前まで自宅にいたリョウが現れたことは、里奈にぞわぞわとした恐怖を抱かせた。何か意味があって私に近づいたのだとしたら……。
 リョウの勤める整体院に行って追及しようかとも考えたが、それ以上に全てが仕組まれているのではないかという得体の知れない怖さが止めどなく湧き上がってきた。
 里奈は見知らぬ男を深い考えもなくマンションに招き入れたことを今更ながら悔いた。

 ブラウザの検索履歴をぼんやりと眺めた。事故のことばかり追っていたが、どんな人だったのだろうか。芸能人だから美人なんだろうな。そのくらいの感覚しか里奈にはなかったが、ふと動画投稿サイトへのリンクをタップした。
 ほとんど本人の動画はなかったが、一件気になるものを見つけた。女優名をハッシュタグにダンスを披露しているアカウントだ。どうやら昔のCMの踊りを真似しているようだ。よくある〝○○してみた〟系の投稿のようだが、一時期毎日のようにアップされているのに、ある時を境にぴたりと止んでいた。

 途中から女優の名前とともに、#ペデストリアンデッキの舞姫 というハッシュタグが加わっていた。コメント欄を見ると、どうやら渋谷で実際にそのダンスを見た人たちからそう呼ばれていたようだった。

 里奈はしばらく#ペデストリアンデッキの舞姫で他の投稿を閲覧した。ほとんどがその場で見つけて面白がっているようだったが、ひとつだけ気がかりなコメントを発見した。
 
【この子、たぶん渋谷駅で亡くなった。酔っ払って倒れてそのままらしい】

——亡くなった……? だから投稿が止まったのだろうか?

 里奈はそのままその情報を調べようと思ったが、ネットの検索だけでは限界があった。亡くなった時期も分からない上に本名その他の情報も不明だった。渋谷駅は人の数が多すぎる。専門機関のデータベースもなしにその情報に辿り着くのは困難だった。

 導かれるように里奈は渋谷へ向かった。動画でその〝舞姫〟が踊っていた場所は何となく分かりそうだったからだ。里奈には自分が何を知りたくて調べているのか段々と分からなくなってきた。目的を見失っている自覚はあった。叔父の志朗のことはもう自分の出る幕はないように思えた。

 それなのに気がついたときには、里奈は電車の車内にいた。神田から渋谷は銀座線で一本だ。20分くらいで到着した。そしておそらくここだろうと思われる場所へ向かった。
 すぐにその場所は分かった。当たり前だが往来の人々が多く、よくこんなところで踊ったなと思いながらしばらく周囲の様子を窺った。

 そこで、捨てられた空き缶を拾う男性と目があった。何故目があったのかは分からない。いつもの里奈なら目にも留めず過ぎ去ったであろうと思われるその男性を里奈は数秒見た。そのうち向こうが笑顔をたたえ近づいてきた。

「誰か人探しですか?」

 里奈は返答を躊躇ためらった。その男性に話しかけられたことにも戸惑ったが、人を探しているといえば探しているのかもしれないが、〝舞姫〟なるその人物と女優に関連があるのか、さらには女優の誹謗中傷に関与しているらしい叔父の志朗とこの事がリンクしているのかどうかすら判別がついてない。
 いまの里奈はまさに手当たり次第に動いているだけで、むしろ何かしていなければ落ち着かないからしている。目的がどちらにあるのかといえば、後者のように思い始めていた。

「私はこのあたりに居を構えるものです。なに、普段はこのように空き缶を拾い集めてるだけの爺です」

 古いポロシャツとスラックス姿の男性はそう言った。日焼けした肌は皺が刻まれていた。外見の雰囲気は60代を過ぎていそうだが、実はもう少し若いかもしれない。年齢不詳だった。
 里奈は思い切ってその男性に聞いてみた。

「2年くらい前にこのあたりで亡くなった女性をご存知ですか? ……酔っ払って倒れて亡くなったと聞いたのですが」

 30秒くらい間があった。

「ちょっと私には分からないけど……知っていそうな人を紹介しますよ。このあたりのことは何でも知っている方がいる」

 そう言うと、男性はすたすたと歩きだした。里奈は追いかけた。警戒心が全くないと言えば嘘になる。でもいざというときは逃げればいい。これだけの人がいる中でおかしなことは起きないだろうという根拠のない自信も手伝った。

 公園の中に〝おじいさん〟が一人腰掛けていた。白髪で白い髭をたくわえた仙人のような風貌だ。ここまで連れてきてくれた男性も「おじいさん、こんにちは」と声をかけた。
 おじいさんは、里奈を見据えた後、こう言った。

「なにかお困りかな?」

 里奈はあのペデストリアンデッキで2年前くらいに亡くなってしまった女性のことを調べています、と話した。これだけの情報で求めている答えにたどり着けるとは到底思えないが、他に言いようがなかったのだ。
 するとおじいさんは「ああ」と思いだしたようにこう話し始めた。

「あれは、いまでも忘れられない出来事のひとつです。その日は3月というのに、真冬に戻ったような寒さで……あれは何と言うんでしたっけ。ああ、そうそう〝寒の戻り〟ですね。底冷えのする寒さで、膨らみ始めた桜のつぼみが今にも縮こまってしまいそうでした」

 おじいさんが語った内容は、白くて薄いレースのワンピースを着て踊るあの動画の女性と特徴が似ていた。だが、女性の身元は分かったのですか? と訊ねたがそれは分からないという。
 そしておじいさんの口からも、亡くなった女性と同一人物ではないかと言われているペデストリアンデッキで踊る美人がいた、との言葉が出た。

 だが、里奈はここで不思議に思った。おじいさんの話によると、女性が亡くなるより1年くらい前に〝舞姫〟と思しき人物はあのペデストリアンデッキで踊っていたという。
 つまり、仮に亡くなった女性が〝舞姫〟だとすると、ペデストリアンデッキで踊り投稿していたのがおおよそ2年前くらいだが、その1年後に亡くなったということになる。

 〝舞姫〟と呼ばれている人物はこの人ではないですか? そう言って里奈は携帯を見せようと考えた。ところがここでおじいさんはうつむくとそのまま言葉を発しなくなった。

「ああ、もうお疲れになったようだなぁ。残念だけどお姉さん、今日はもうここまでだな。もう少し聞きたいことがあるようだけど、また次回おいでなさい。そのときはね、何か差し入れでも持ってきて。〝情報〟はタダじゃないよ。よく、ご存知でしょう。今日はね、初回サービス」

 そういって、ここまで案内した男性はニコリと微笑んだ。


つづく

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