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「待つ」経営

こんな”つぶやき"をした。


経営に、農業の営みをメタファーとして持ち込むと、
「待つ」という行為の大切さが際立ってくる。


種を蒔いて、すぐに芽が出るわけではない。
芽が出てから、すぐに実がなるわけではない。

手間をかけながらも、「その時」が来るのを待つしかない。

日照りが強いこともあるだろうし、雨が降ったり降らなかったりすることもあるだろうし、
自分の思い通りにならないことの、なんと多いことか。


台風がやってきて、農作物がダメになってしまった農家の方へのインタビューがテレビで流れることがある。
「予想外の大変なことが起こった」と慌てるインタビュアーに対して、
大きく落胆しながらも、心のどこかで「まぁ、そういうこともある」と達観する農家の強さのようなものを感じる。


「蒔く」という漢字のなかには「時」という字が入っている。
これは、多くの不確実の靄(もや)の先にある"未来"の明りを臨み(望み)ながら、"今"において取り組む行為である。


経営においても、
事業が育つことや、人が育つことについて、
「待つ」ことを抜きにして語ることはできない。


私たちは、経営やビジネスから、「待つ」ことを手放そうとしていないだろうか。
それが不要なものであるとして意識的に、
あるいは、
それの価値を意識する感度さえも失うことによって無意識的に。



鷲田清一さんの著作に『「待つ」ということ』という本がある。

いまの社会が「せっかちな社会」「待たない社会」「待てない社会」になってはいないか、と、「待つ」ことについて語っている。

せっかちは、息せききって現在を駆り、未来に向けて深い前傾姿勢をとっているようにみえて、じつは未来を視野に入れていない。
(中略)
待つというより迎えにゆくのだが、迎えようとしているのは未来ではない。ちょっと前に決めたことの結末である。決めたときに視野になかったものは、最後まで視野に入らない。

「待ち焦がれる」「待ちわびる」「待ち疲れる」...

「待つ」という言葉には、目にするだけで胸がキュッとするような、じれったさのある言葉や、じれったさを手放すような言葉が合わされることが多い。
それでも、私たちは、「待った」先にあるものに期待して「待つ」。

意のままにならないもの、偶然に翻弄されるもの、じぶんを越えたもの、じぶんの力ではどうにもならないもの、それに対してはただ受け身でいるしかないもの、いたずらに動くことなくただそこにじっとしているしかないもの。そういうものにふれてしまい、それでも「期待」や「希い」や「祈り」を込めなおし、幾度となくくりかえされるそれへの断念のなかでもそれを手放すことなくいること、おそらくはそこに、<待つ>ということがなりたつ。


鷲田さんは、いわゆる「ビジネスの言葉」に、共通の接頭辞が付けられていることを指摘している。

プロジェクト、利益(プロフィット)、見込み(プロスペクト)、計画(プログラム)、生産(プロダクション)、進捗(プログレス)、昇進(プロモーション)...

そう、「プロ」という接頭辞に溢れている。

すべてが前傾姿勢になっている。あるいは、先取り的になっている。そして、先に設定した目標のほうから現在なすべきことを規定するというかたちになっている。
(中略)
「プロ」に象徴される前のめりの姿勢は、じつは<待つ>ことを拒む構えなのである。
待つことには、偶然の(想定外の)働きに期待することが含まれている。



経営について引き寄せると、
何か予想外の驚き(Something Wow!)に期待しておきながら、その取り組み方は、驚くべき未来への道を自ら閉ざしているのかもしれない。





P.S.

ちなみに、鷲田さんの著作には『「聴く」ことの力』という本もある。



「待つ」ことと「聴く」ことは、共通した姿勢だと思う。

この本の説明文では、「聴く」という行為を「目の前にいる相手をそのまま受け止めるいとなみ」「不条理に苦しむこころからことばがこぼれ落ちるのを待ち、黙って迎え入れる受け身の行為」と書いている。

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