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【読書メモ】集合的創造性

とても刺激的な本を読んだ。

「集合的創造性―コンヴィヴィアルな人間学のために」
https://www.amazon.co.jp/dp/479071750X


「創造性」について考えるにあたって、
「集合」という概念を取り入れることで、
あたらしい示唆を得ようとする試みの本であるようだ。

(最後まで読めていないのですが... 自分のメモのためにも書いておこうと思う。)

「創造性」を「直面する問題を解決するためのアイディアを生み出し実践する力」と定義し、「すでに存在している多種多様な要素を状況に合わせて取り出し、組み合わせ、接合・融合・総合することで新たな可能性をつくりだす力」を捉えている。

「集合的創造性 Collective Creativity」というコンセプトには、
2つの意味の「集合的」
含まれているように受け取った。

"集合としての"創造性

創造性の主体を、「個人」ではなく、「集合」と捉えてみる。

すると、創造性の発露とは、ある「集合」のナカにある要素が、あたらしい要素と組み合わされ、接合・融合・総合される現象を意味することになる。

例えば、植民地化や戦後の(いわゆる)西洋化のプロセスや、ある集団のナカにある知恵や考え方がソトの考えに触れることで変容することなどが対象になる。
(この本で取り上げられている事例は、とても多様で、「サグラダファミリアの建設現場」「太極拳の交流会」「北海道の木彫りの熊」「食文化」「戦後の島国の『近代化』」「難民」「朝鮮学校」「貧困女性」など)

そうだとしたとき、創造性が発露されるプロセスは、
ナカの知恵がソトの知恵に置き換えられるプロセスでは無い、
と本書では主張している。
この捉え方は、ナカの知恵とソトの知恵を二項対立に置いて、その優劣を決しようする思考法であるわけだけれど、
「現実はこうした単純な二項対立で解けないほど両者は複雑に絡み合っている」。

この本では、カメルーン出身の人類学者で思想家のフランシス・ニャムンジョの論考を取り上げながら、そのプロセスを、より丁寧に捉えようとしている。

西洋によるアフリカ植民地支配の痕跡を、西洋と交わったアフリカが産み落とした「赤ん坊」と捉え、この不完全な生き物を「流産させたり」「始末したり」することは選択肢になりえない...(中略)... 「赤ん坊」の比喩は、西洋とアフリカ、近代と伝統、グローバルと土着といった平板な二分法の枠組みを超えて、相互の接合と補完、相互の転換、相互の変法を可能にする両者の関係性を示している

「集合」が、あたらしい要素に出会い、それを消化することを通じて、あたらしいモノを「出産」する。

そのような姿を想像する。

"集合ゆえの"創造性

個人という存在は、不完全な存在である。
身体や精神の不完全や、思考や実践の不完全、空間や時間の不完全。
私たちは、多種多様な存在である一方で、それゆえに(あるいは、それと同義なこととして)様々な不完全を抱えており、集合のなかでそれらの不完全さを補い合うという文脈のなかで、他者と繋がりながら生きている。

不完全が表出し、そしてそれが補われる。
そして、他の要素において、不完全が表出する。

そのような滞ることのない流れのなかにおいて、
多種多様な要素が出会い、接合・融合・総合される。
それこそが、創造性の発露である。

世界の不完全性を再チャージすることで混沌と言う秩序が生成されつづけているのである。不完全性が産出される世界では、不完全な存在やモノが存在を超えて通交し、それを通して相互に不完全状態を変容させることで人びとの日常の暮らしをよりよき方向に導いていったのである。


コンヴィヴィアルな個人

創造性の発露が集合において起こるとしても、
実際に、何かあたらしいアイディアを思いつき、実践に移すのは、個人である。

ここで導入されるのが「コンヴィヴィアル」という(個人的には聞き慣れない)コンセプトである。
これは、「人間的な相互依存のうちに実現された個的自由」を意味するものだそうだ。
そして、この本では、更に踏み込んで、
「コンヴィヴィアルな個人」を「不完全な他者(人間的存在だけでなく、環境や関係性なども含む)とを繋ぎ合わせる不定形の装置」と意味づけている。

このような「不完全な存在」としての個人が「異種結節装置」として機能することで、集合的創造性が発露する。

この議論の背景にあるのは、
他者との差異を認識し、それらを分けること通じて輪郭を得るジブン
ではなくて、
差異のある他者や、周囲の環境のなかに、溶け入っていくジブン
という人間観である。
ここで言う「他者や環境」というのは、
自分が属してる集合のナカのことだけでなく、ソトのことの含んでいるように理解した。


集合の要件

ここまで見てきたような創造的な営みが生じるためには、
その場/共同体は「自然な」ものであるべきのようだ。

生産活動のみのための共同体ではなく、
特定の目的のための方向づけられた組織でもなく、
かと言って、
すぐに消滅したり創発的に出現したりする不安定な結び付きでもなく、
「自然に」安定している集団。

にもかかわらず、
つねに自省し、固定化を阻止して流動化していることも必要であるそうだ。

この安定流動化という反対の力を両立させるのが、
「コンヴィヴィアルな個人」という存在ということのようだ。


あたらしい「創造性」観

創造性に関する探究は、芸術家を研究することから始まったそうだ。
この類まれなる才能は、どのようにして育まれたのか、と。

そのような経緯もあって、創造性に関する研究は、基本的に「個人」という単位を、その担い手として捉えてきたそうだ。「三人寄れば文殊の知恵」現象を研究するような場合でも、やはり「個人」が創造性の担い手になっている。

一方で、この本で展開する議論は、
「集合」に宿る創造性というものにライトを当てていて、
そのような系譜とは異なる人間観・世界観を持っている。



まだ、しっかりと咀嚼できていないし、
経営というテーマに引き寄せるのであれば、
「集合的創造性」というモノをマネジメントする
ということについても、関心が向かうところなので、
考え続けていきたいと思う。


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