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【葛飾北斎】生涯に渡って絵を書き続けた天才画家

皆さんこんばんは、福田達也です。

一時帰国している友人が絵を見に行きたいという話をしていたので、葛飾北斎展まで行ってきました。

日本・西洋を問わず非常に人気がある浮世絵師だということは知っていたのですが、よくよく考えてみると有名な『富嶽三十六景』以外にはあまり知りません。

ですが北斎展で描かれている北斎は、自分のイメージを大きく超えているものでした。10代の頃から絵を書き続け、享年の90歳になるまで、ひたすらに絵を書き続けた天才。改めて尊敬する思いと、自らを画狂人と名乗る北斎が、生涯をかけて辿ってきた、そのルーツを知りたいと思ったのでこの機会に調べてみることにしました。

絵に没頭した少年~青年

1760年(宝暦10年)、今の東京都墨田区近辺に生まれた北斎は、6歳の時には絵を描くことに強い関心を持っていました。14歳の時には木版彫刻師の徒弟となり、19歳の時には当時トップの浮世絵師であった「勝川春章」に入門。本格的に絵画の勉強を始めます。

入門してすぐに「勝川春朗」の画号を貰った北斎は翌年デビュー。挿絵に限らず、錦絵や洒落本、春画の挿絵、肉筆美人画など様々な絵画を経験します。

しかし、兄弟子の「春好」からはハラスメントを受ける日々。上手くなりたい一心で、浮世絵以外の他派の絵画「狩野派」「土佐風」や、更には「西洋画」なども学び猛勉強。しかし、この事がきっかけとなり、勝川派を破門されてしまいます。

美人画に注力した俵屋宗理時代

勝川派を破門された北斎は、「琳派」に加わり、「三代目 俵屋宗理」を襲名します。

この頃の北斎はとにかく「美人画」に注力。「宗理美人」と呼ばれる、うりざね顔の上品な顔立ちに、スラリとした細身の女性画のスタイルを完成させます。

後進を育てた壮年時代

40代後半になると北斎の門人(弟子)は200人を超え、注文も自分一人では対応しきれなくなってきます。この頃の北斎は、「絵手本」(絵の描き方を習う本)や「北斎漫画」(「ホクサイ・スケッチ」の名で世界的に有名)に注力していたようです。

しかし、『北斎漫画』の刊行などで人気を得ていたものの、この頃の北斎は、本道の絵師としては鳴かず飛ばずだったそうです。そして還暦を迎えた時、北斎に転機が訪れます。

歴史に残る名作富嶽三十六景と大火

70歳を過ぎた北斎は、50代に日本中を旅していた時に感動した富士山の姿を納めるべく、『富嶽三十六景』の制作に取り掛かります。各地から眺めた富士の姿、それを練りに練った構図で描きあげた計46枚は、今でも残る逸品ばかりです。これが、当時はそば2杯程度の値段で刷られていたというのですから驚きです。

しかし、80歳の時に人生始めての火災にあい、それまで書き溜めていた全てを失います。それでも北斎は、まだこの筆が残っていると言っていたそうです。

生涯の終わり

その言葉を証明するかのように、『画狂老人卍』と画号を変えた北斎は、それまでの浮世絵のスタイルから、肉筆画に変えて80歳を迎えても新たな技法に挑戦し続けます。

そして迎えた享年90歳の頃にもこう語っていたといいます。

翁 死に臨み大息し 天我をして十年の命を長らわしめば といい暫くして更に言いて曰く
天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得べし と言吃りて死す
(現代語訳:
「天の神が、あと10年長生きさせてくれたら、いやあと5年長生きできたら、真正の画工となれるのに」

https://letterpresslabo.com/2017/10/25/kazuo-mori-kotohajime07/
https://www.touken-world-ukiyoe.jp/ukiyoe-artist/katsushika-hokusai/

と。

生涯に渡って狂ったように絵を書き続け、老いてなお向上心を持って腕を磨き続けた北斎の生き方が、ここに詰まっているように思います。

終わりに

今回は世界に名を残す天才画家、葛飾北斎について調べてみました。

80になり、大火ですべてを失っても、新しい技法に挑戦し続ける姿や、90歳を迎えてなおまだまだ絵が向上し続けると信じて腕を磨き続けるその姿は、人間の可能性をというものをひしひしと感じさせます。

自分のビジョンも生涯現役!北斎の背中を追いかけるわけではないですが、常に成長し続ける日々を過ごしたいと思います。

本日も読んでいただき、ありがとうございました。
また次の記事でお会いできることを楽しみにしています。

参考文献

本記事は以下のサイトを参考にさせていただきました。この場を借りて、お礼申し上げます。


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