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小説『海風』僕の話(7)【第一章を無料公開中】

 それから僕は部屋でただ息をしていた。喉の奥まで綿をいっぱいに詰められたぬいぐるみのようにじっと。でもそれこそ綿が詰まってるみたいに、息をするだけでも苦しかった。虚無感がどろっとした感触で僕を包み、何をする気も起きない。結局、彼女や彼に連絡を取ることもできず、言い訳ばかりが日々募っていく。この感覚どれもが僕の妄想だとしても、世界とはそういうものだ。主観のレンズを外して生きることはできないのだから。好もうと好まざると僕は僕でしか生きられない。
 今、なぜ生きているのかを問われたら「ただ死ぬのが怖いから」と答えるしかない。でもなぜこんなにも死ぬのが怖いのだろう?
「死にたい。死にたい!」
心はガンガンとノックして叫ぶけど、僕は弱虫だった。こんなにも死にたいと心は喚いているのに、死ぬための行動すら億劫で、このまま自分が腐って朽ちていくのをただ眺めていられたらいいと思う。今の僕は蛹にも似ているけれど、蝶へと変体するような奇跡的な変化を遂げることはないだろう。ただ蛹の中で身体中が溶けて、元に戻ることはない。本や映画も記号の不自然な羅列にしか見えないし、誰かと会話をしたところで、カフカが『変身』で書いた毒虫になったみたいに、訳のわからない言葉が口から出るだけだ。もし好みの女性が目の前でセックスをしていたって何も感じられないだろう。ただ、虚しさだけが閉ざされた部屋を元気に駆け回っている。
「ネガティブな感情だけは元気だな」
呆れるほど溢れ出る陰鬱な考えが少し可笑しくて一言漏れ出たこの言葉も、誰が拾うわけでもない。存在しているのか存在していないのか曖昧な微振動だ。何もせずクラクラとぼやけた日々を、濁った水をかき混ぜるかのように無意味に過ごしていても、容赦無く時計の針は進んでいくし、世界は彩りを変えていく。降り止まないと思った雨もいつの間にか上がり、晴れを待ち侘びた人々は海風でも気持ちよく浴びている頃だろう。茹だるような連日の暑さと、じめじめとした不快な空気、掃除のされていないアパートの一室で汗をかきながら、それがピッタリとはまって、僕の存在を溶かしてくれる気がした。
「僕は彼女を愛していた」
この蠢いている感情たちは、彼女を永遠に失ったことで生じた隙間に湧いてくるんだろうか。このまま発狂してしまえたら、いくらか楽だろうに。
 だけど僕の理性はそれを許そうとしない。わかっているからだ。この感情を生み出しているのも僕自身で、全てが自分の責任だと。もっと前向きに捉えることも自分次第だと気づいている。事実を知れば僕のせいじゃない可能性の方が高いことも、低い可能性への恐怖で、視界を歪めて怯えているのも頭では理解している。何もかも、現状維持をするため、これ以上傷つかないためにでっちあげている虚像だ。こんな思考を巡らせていたって現実は何も変わりはしない。
「そこまでわかってんなら、外へ出ろよ」
彼なら迷わずそうするだろう。でも僕は弱い。どうしようもなく弱い。それを証明するように、行動が、言葉が、思考が裏付けていく。弱い僕すらも愛してくれた彼女に、依存してしまっていたのかもしれない。存在そのものを認められたような安心感に浸って。
「あるがままで良いなんてのも甘えで、現状維持の言い訳だけどな」
そうやって僕はいつしか彼のことが嫌いになった。どうしようもなく正しくて、前向きでしっかりと生きている彼が嫌いだ。幻聴で勝手に嫌になっているんだから、彼にとってはたまったもんじゃない。何よりもこんな思いを抱いてしまう自分が、どうしようもなく嫌いだ。
 外では正午のチャイムが鳴っている。太陽は真上から分け隔てなく世界を照らしている事だろう。その善意にも似た鬱陶しさから逃れるように、そっと目を閉じて意識を消していった。

 ベッドの上に投げ出されたスマホを開く。どうやら十四時間も寝ていたらしい。これだけ寝たのに何故か押し潰れるような瞼にほんの少し抵抗して、カップ焼きそば用のお湯を準備し始める。なんでもいいから胃袋にいれたかった。電気ケトルに水道から必要最低限の水を供給し電源を入れる。水が百度になるのを待つ間、包装を剥がして中から薬味やソースを取り出した。そして思い出したようにコップに水を汲み、体に無理やり流し込む。
「僕はまだ生きたいんだろうか?」
そんな問いが頭をよぎる。眠るのも食べるのも生きるための行為だ。思考でいくら覆い被せたとしても、本能的欲求に打ち勝つのはそれなりの覚悟がいることなんだろう。自分の存在があまりにも希薄で、色褪せて中途半端で、しょうもないものに感じる。

 虚無感が生み出す静寂の中にカチッと機械音が響き、お湯が出来上がったことを知らせた。なんの意味もないのだが、こぼさないようにカップに注ぐ。水分子の一部は湯気となって空中を漂おうとするが、それを遮るようにして蓋をし、スマホで三分のタイマーをセットした。することもないのでカウントダウンの数字をじっと見つめる。心の傷は時間が解決してくれるというが、この数字がいくら積み重なったとしても何かが変わるとは到底思えない。時の矢は一方向にしか進まず、どんな物質も滅びに向かうだけだ。それは人も例外ではなく、結局のところ生きる意味なんてどこを探したって見つからないのは分かりきっていた。

 セットした時刻を知らせるための耳障りな音を聞く直前にタイマーを止める。用済みのお湯を捨てるための穴からシンクへとこぼし、ある程度の水を切る。粉末のソースを水を吸った麺にふりかけ、箸で底からひとつかみ掬いだしてかき混ぜたあと、食べるのが面倒になった僕は死ぬことにした。箸を置いて熱々の焼きそばをゴミ箱に捨てると、僕の命もこんなふうに扱えば良いのだと理解する。何故かひどくさっぱりした気分だった。一応、遺書でも書いておこうか。

 パソコンが起動音を鳴らし、パスワードを打ち込む。ずっと放置していたブログを立ち上げてキーボードをたたき始める。誰に宛てて書く訳でもない、彼女にも彼にも読まれない文章。警察が見つけて家族なんかには見られるかもしれない。
「誰かがこの文章を読む頃には、僕はもうこの世にはいないでしょう。」
こんな書き出しはありきたりでつまらないとも思ったけど、遺書に面白さは不要だと思い直す。
「ああ……いつ死んだっていいんだ」
吐く息にまざってポツリと口に出た言葉。久しぶりに自由な気分を感じて、自然と笑みが溢れる。死ねば全てなくなるんだと受け入れた瞬間に、澱んでいた悩みが軽いものとして溶けていった。彼女も死んで僕も死ぬ。彼女のいない世界で生きる意味はない。人はいつだって失って初めて気がつく。そんな常套句ばかりが浮かんできて、自分の貧相な想像力に、さっさと死んでしまえと思う。
 死んだあとに天国なんてあるのかはわからないし、もし仮にそんなものが存在したとしても、彼女に会うことができるなんて虫のいい話もなさそうだ。でも少なくとも生きているよりはそちらに賭けた方がいい。ぼんやりと浮遊した心地よい夢想状態から遺書に意識を引き戻す。さて、何を書こうかな。

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◆完全独力で執筆(執筆・編集・表紙デザイン)の処女作

「海まで歩こう」
何かの啓示のように頭を掠めたその思考は、なぜか心にしっかりと触れて、確かな感触を持って留まった。フラフラと飛んでいた間抜けな鳥が止まり木を見つけたように。どうせならあの砂浜まで歩こう。そうしたら僕にも、彼女が言っていた海風が分かるかもしれない。そして、愛とは何なのかも。(本文より引用)

「バイト、大学、読書」という定型の生活を送る大学生の”僕”。
突然話しかけてきて「友達」になった”彼”や、
別れてしまった”彼女”との日々によって、
”僕”の人生に不確実性と彩りが与えられていく。
僕だけが知らない3人の秘密。徐々に明らかになる事実とは?

「愛とは何か」「生きるとは何か」「自分とは何か」

ごちゃごちゃに絡まった糸を解きほぐし、
本当の自分と本物の世界を見つける物語。

<著者について>
武藤達也(1996年8月22日生まれ)
法政大学を卒業後、新卒入社した会社を1年3ヶ月で退職。
その後は山と廃屋を開拓してキャンプ場をオープン。
3年間キャンプ場に携わり、卒業した現在は海外渡航予定。
ブログ「無知の地」は限りなく透明に近いPV数でたまに更新中。

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