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小説『海風』僕の話(2)【第一章を無料公開中】

ピンポーン

……

ピンポーン

誰だ?というか今は何時だ?スマホの画面を見ると午前四時だった。明らかな異常事態である。

ヴゥヴウウウウウウウ……

手に持ったスマホが震える。電話のようだ。無視して眠りたいのはやまやまだが、仕方なく出てみる。十中八九チャイムの押し主だ。
「おいおい、ピンポン押したの六回目だぞ。いいかげん起きろよ!」
呆れているらしいが、呆れたいのはむしろこちらの方だろう。間違いなく。
「いきなり何?というか、押しすぎでしょ」
「リプライしただろ。俺も行くことにした。そして出発は早い方がいい。善は急げだ。ドゥー ユー アンダースタン?」
錆びついたシャッターのように重い瞼を、無理やりこじ開けながら昨日の投稿を見ると、確かに返信がきていた。「いいね」はなかったが。
【おもろいな。俺も行く。】
「なんでこんな時間なわけ?」
よく考えればそれ以外にも聞きたいことはいくらでもあったのだが、口をついて出たのがこの質問だった。
「日の出を見るために決まってんだろ。早く出てこーい。日が暮れちまうぞ」
日暮れまで何時間あると思ってるんだ、と言いかけて止めた。彼の言葉にいちいち突っかかっていたらそれこそ日が暮れてしまう。正確にはまだ明けてもいないのだから既に日は暮れているのかもしれないが。
「わかったよ。すぐ行く」
「せっかく久しぶりにちゃんと夜中に眠りにつけたのに」と彼には聞こえないように呟く。そして幸か不幸か、僕は前日にしっかりと荷物を準備するタイプの人間だ。本当にすぐに出発できるのである。ただ、彼はそういう僕のことも見越している可能性が高い。彼は一見するとチャラいというか、感覚派に見えるのだが、実のところ思考は僕よりも深い。本だって彼の方が読んでいて、僕が読む本は大抵彼も読んでいた。表に出ているのは全く違うけれど、芯の部分とか価値観にはとても共感できるし、そこに惹かれるのだと思う。そして彼はどこか彼女と似ている気がする。

 彼との出会いは二年前、大学一年生だった。この時の僕はサークルにも入らず、バイト、読書、講義の繰り返しで日々を消費していた。あとはひたすら寝ていた。睡魔は昼間でも関係なく襲ってくる。ひどい時には、前夜にも寝たはずなのに、その日の昼に寝て夜に起きることもあった。僕の体はなぜこれほどまでに睡眠を要求してくるのか見当もつかない。おそらく神様は設定を間違えたのだと思う。とは言ってもこの生活に不満があるわけではなく、むしろこの生活を求めてわざわざ大学に入ったとも言える。適度に講義を寝て過ごしながらも僕は満足していた。だけど、入学して二ヶ月ほど経ったころ、生活リズムがつかめてきたくらいの時期に彼と出会った。ちょうど長い梅雨の時期だった。
 水はけが悪いのか、泥がしみ出して沼ができているキャンパスで、「誰かのスワンプマンでも生まれていて、実は入れ替わっているんじゃないか」なんて意味もない空想を広げていたのを覚えている。ひたすらに引きこもっている自分を正当化してくれる梅雨は、嫌いじゃない。
 大学にいる間も読書をするか寝ているかばかりだった僕には、友達も別にいなかった。というか幼少期から、誰か友達らしい友達はいない。猫くらいだろうか。これまでの人生、誰かに話しかけたりはしなかったし、誰も話しかけてこなかった。彼以外には。
「おいおい、大学で『罪と罰』なんか読んでんのかよ。そりゃあ誰も話しかけないな」
「話しかけてるし……」
驚きのあまり、ボソボソとただ言葉がこぼれる。そして、直感的に僕が一番苦手なタイプだと思った。笑いながら話しかけてきて、バカにされて会話は終了、というイメージが頭をよぎる。昔からそういう人間のターゲットにならないよう、影を潜めて生きてきたのに、まさか大学生になって出くわすことになるとは。
「でも俺はそういうやつと友達になりたかったんだ。よろしくな。ほれ、スマホ出せよ」
彼に言われると断れないのが不思議だった。僕は入社したてで不慣れに名刺を差し出すサラリーマンのようにオドオドとスマホを渡す。これで彼と「友達」になったようだ。
「俺もドストエフスキーは好きだぜ。人間なんて時々は善人で、時々は悪人だっていうのをちゃんと書いてるからな。他には読んだか?『カラマーゾフの兄弟』とか」
「まだ読んでいないんだ。ドストエフスキーを読んだのは『地下室の手記』とこの読みかけの『罪と罰』だけ」
「あ、でもわかるぜ。『地下室』は薄くて読みやすいし、俺もそれからハマったかな。まあ面白い本があったら教えてくれよ。こう見えて活字中毒者なんだ。ちなみに海外文学を読むなら『聖書』は読んでおいた方がいいぞ」
「聖書か……ちゃんと読んだことはなかったよ。あまり読む気にはならないけど」
「まあ、あれはイエス自身も言っているが、比喩の連続だからな。そのまま読んでもピンとはこないさ。だけど、ちゃんと背景がわかるようになるとおもしろいぞ。俺から言わせれば、ほとんどの奴らはイエスの意図がなんだかわかってないけどな!」
彼は得意そうに笑う。少し傲慢過ぎるんじゃないかと思い、皮肉混じりに答える。
「君はわかってるって口ぶりだね」
「偶像崇拝をやめて目の前の愛に生きよ!つまり『書を捨てよ、町へ出よう』ってことだよ」
「寺山修司じゃん」
「そう!だから、お前も本はほどほどにして現実を生きろよ」
「嫌だよ。まだ続きが気になるんだ」
「ははは。まあそうだよな。でもいつかは俺の言ってる意味がわかるさ。俺の言葉も聖書並みにたくさんの意図が含まれてるんだぜ」
「それはご大層なことで。とりあえずもう休み時間終わるから、また機会があれば」
僕は半ば逃げるようにして話を終わらせたけど、なぜか嫌な気はしない。あると信じ込んでいた壁を、あっさりと飛び越えて懐に入られてしまった感覚を覚えた。それくらい彼との会話は自然で違和感がない。不思議なほどに。

「壁?そんなんなかったけど?むしろ見たかったな」
まるでベルリン観光でもしたかのように妄想上の彼は言う。この出会いは、三パターンの繰り返しで簡単に計算できた僕の生活に不確実性を与えた。
「ぜんぶ波なんだよ。不確実で揺れてんの。それが楽しいんじゃん。不確実性を許容できることが生き残るコツだぞ」
彼曰くすべては波らしい。確かに今日もいきなり大荒れの予感がする。
「お待たせ。行こうか」
「おう。まずは丘に登ってお天道様のご尊顔を見にいくぞ!」
まだ道は暗いはずだけど、なんだか明るく感じる。彼に絆されたのか、不確実なこともある程度楽しいと思えるようになってきていた。まだ眠いことには変わりないけれど。

「きたきたきた!太陽!」
一時間弱歩いて丘の上に辿り着くと、ちょうど赤い火が世界を照らし始めた。彼は楽しそうにはしゃいでいて、僕は眩しいなと思いながらも、山の間から光を届ける、核融合する天体から目をそらすことはできなかった。
「旅の始まりにふさわしいだろ?」
「うん……そうだね。本当に」
そう言うと備え付けられたベンチに腰を下ろす。正直に言えばすでに少し疲れていた。とんでもない時間に起こされて、歩かされたのだから仕方がない。真っ暗な坂道をスマホのライトで照らしながら進んだが、彼は自前のヘッドライトを得意げに頭につけて探検気分である。こんなに早く貴重な充電を消耗することになるとは思わなかったけど、それでも本当に太陽は美しかった。周りの木々は生気を取り戻したように鮮やかな緑を湛えている。それはまるで、子供がおもちゃを買ってもらったときに見せる瞳の輝きのようで、どこか微笑ましい。

 朝になって日が昇る。そんな当たり前のことに感動するのはなぜなのだろう。太陽は毎日休まずに昇り続ける。正確には僕ら地球側が直視したり顔を背けたりしているだけなのだけど、特別なことではない。夜は暗くて危険で、朝は明るくて安全。そんな単純な情報が遺伝子に刻まれているだけかもしれない。でも、もしかしたら太陽を見て感じるのは人によっては「美しい」とは違う感覚なのだろう。この感情の名前は人それぞれで、驚きや喜びなのかもしれない。でも心が動くという現象は確かに存在していて、ひょっとしたら人間以外にも共通なのかもしれないと思わされる。きっとこの緑たちも太陽を待ちわびていたはずだから。
「じゃ、いこうぜ!」
「早くない?もう少し見ていたいな」
ベンチに座るそぶりすら見せない彼を横目に、明るくなっていく世界を見つめる。
「もうバテたのか?運動不足だな。生命の生命たる所以は動きだぞ」
図星を突かれて少しムカついたのでぶっきらぼうに返事をする。
「心が動いてるから良いんだ」
「そりゃあもちろん。でも体も動かさないと心も腐る。寝て起きたばっかりなんだから大丈夫だろ?」
「誰かさんのせいで四時間くらいしか眠れてないんだけど」
「関係ないね。やると決めたら無心でやるのさ。それが流れに乗るコツ。歩くと決めたなら、眠いとかそんな考えはしない。良い意味で諦めるんだ。いつだって理由はいくらでもある。やる理由もやらない理由もな。そんなのは気にしないでただやるんだ」
「じゃあ今は休むと決めた」
「わかった。今回ばかりはお前に合わせるさ」
彼も隣のベンチに腰掛けて、大きなバックパックを下ろした。確かに僕がこの旅を始めたのも、やると決めただけ、ある種の直感だった。海風を浴びる、それだけのために一体どれくらいの距離を歩くことになるのだろう。こんなことをしたって何の意味もないかもしれない。彼女を愛していたのか。抱いていた感情に名前を付けるとしたら。それはとても入り組んでいて、一つの言葉で言い表すのはあまりにも陳腐に思えた。

 彼女は僕に向かって「愛している」と言った。彼女が意味している愛とは何だったのか、理解できる日は来るのだろうか。そもそも、日常で交わされる言葉たちは、それぞれが定義したものであって、共通の意味にはなり得ない気がする。僕の「美しい」は誰かにとっての「美しい」ではないのだろう。そう考えると、なんだかこの世界全部が曖昧で、何か得体のしれないものにしか思えない。サルトルが『嘔吐』で書いていたブヨブヨしたものに見えてくる。
「言葉ってさ」
「またなんかごちゃごちゃ考えてるな」
「寝不足なだけ」
またも突いてきた図星をはぐらかして話を続ける。
「言葉って意外と曖昧だよね。僕は今、太陽を見て美しいと感じているけど、これは君にとっての美しいとは別かもしれない」
「そりゃそうだ。人は感覚同士を完全に共有することは不可能だよ」
「でもさ、本当の意味でお互いを理解することは本質的には無理なのかな?そうだとしたらこの会話だって不思議じゃない?どうして成り立っているんだろう?」
「完全な理解は原理的に不可能だね。人なんてそれぞれの見てる世界でしか生きられない。だからこそ言葉という便利な道具を生み出したんだ。俺にとっての赤と、お前にとっての赤は違うかもしれないけど、それが赤だとして話が進むならいいんだよ。お互いが自分の感覚で、意味と事象を関連付けてレッテルを貼ってる。だから本来なら新しく誰かと話すときには、その誰かと新しく言葉の意味を決めなくちゃいけない。文脈を共有しなくちゃならない」
「でも伝える言葉を、また別の言葉で意味を決めるなんておかしくない?やっぱり一生分かり合うことなんてできやしないって気がしてしまうけど。辞書の中でただお互いの言葉を行き来してループしてしまうだけじゃないか」
彼は珍しく少し沈黙する。まっすぐに太陽を見つめている彼の目は、深く光を取り込んでも反射しない深い深い海のように見えた。
「本質的に共有することはできない、か。それでも受け入れるしかないだろうな。俺らの中にある言葉なんて世界のほんの断片で、自分の感情すらまともに表すことはできないんだから。それでも一緒に生きるためには、絶対に理解できないことを知ったうえでも、できる限り分かろうとすることを示す必要がある。言葉だけじゃなく態度や表情も含めてな」
「絶対に理解できないとわかっているのに理解しようとするのは、僕にはなんだか意味のないことのように思えてしまうけど……」
きっとそれが彼女にも伝わったんだろうな、そう言いかけて止めた。結局、僕は彼女の言葉を、愛を理解しようとなんてしていなかった。どこかで諦めていたのだ。僕なんかが彼女を理解できるはずもないと。
「意味なんてのは結局のところ自分でつくるもんだけどな」
彼は誰に言うでもなく呟く。それは僕に発せられたようでいて、深い渦に飲み込まれて沈んでいくような重さがあった。だけど確かに僕はその言葉を理解した気がした。言葉にはできないどこか深いところで。
「もういいだろ、行こうぜ。そんなことばっかり考えてたら、せっかく昇ったお日様も愛想つかすぞ」
この旅に意味を付けるなら何だろう。それは海風を浴びた時にわかるのだろうか。ボブディランも歌っていたし、きっと答えは風に吹かれている。今はただ心が動かされる方向へ行くしかない。
「そうだね。とにかく海風を浴びなくちゃ」
「そうこなくっちゃな。いくぞ!」
僕らはまだ歩き始めたばかりだ。海に着くのがいつなのかなんて、どうでもいいのかもしれない。ただ目指して歩くんだ。

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◆完全独力で執筆(執筆・編集・表紙デザイン)の処女作

「海まで歩こう」
何かの啓示のように頭を掠めたその思考は、なぜか心にしっかりと触れて、確かな感触を持って留まった。フラフラと飛んでいた間抜けな鳥が止まり木を見つけたように。どうせならあの砂浜まで歩こう。そうしたら僕にも、彼女が言っていた海風が分かるかもしれない。そして、愛とは何なのかも。(本文より引用)

「バイト、大学、読書」という定型の生活を送る大学生の”僕”。
突然話しかけてきて「友達」になった”彼”や、
別れてしまった”彼女”との日々によって、
”僕”の人生に不確実性と彩りが与えられていく。
僕だけが知らない3人の秘密。徐々に明らかになる事実とは?

「愛とは何か」「生きるとは何か」「自分とは何か」

ごちゃごちゃに絡まった糸を解きほぐし、
本当の自分と本物の世界を見つける物語。

<著者について>
武藤達也(1996年8月22日生まれ)
法政大学を卒業後、新卒入社した会社を1年3ヶ月で退職。
その後は山と廃屋を開拓してキャンプ場をオープン。
3年間キャンプ場に携わり、卒業した現在は海外渡航予定。
ブログ「無知の地」は限りなく透明に近いPV数でたまに更新中。

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