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感情のアップダウン

盛りなしで、人生で5000回くらいはポジティブ思考になる努力をしたことがあると思う。けれど、今現在も根っからのネガティブ思考であるところを見る限り、どうやら私が根っからのポジティブ思考になることを目指すのは、逆立ちさえできないひとに「では、逆立ちをしてグラウンドを3周してみましょう」というくらいには段階が飛躍しすぎているみたいだ。
じゃあ私にとっての「第一弾:壁補助ありの逆立ちの練習」みたいなものって一体何だろう、と考えて出した最近の結論が「感情のアップダウンを緩やかにすること」だった。

感情のアップダウンが、どうやら異常に激しいらしい。
一番分かりやすい例が、泣いた時だ。中高生の時はたまに友達の前で泣いてしまうことがあった。部活でうまく行かなかった時や、重要なペアワークの課題を家に置いてきてしまった時には、主にこらえきれない自責の感情から涙がこらえきれなかった。周りの人をびっくりさせてしまうのも嫌で、本当は泣きたくないのだけれど、いくら歯を食いしばってもあふれ出てきてしまう時はどうやっても無理なのだ。

たまに泣いてしまっていた記憶は、今となっても本当に恥ずかしい。思い出すと「うわあ」と頭を抱えたくなるような恥ずかしさだ。

さすがに大学生となっては人前で泣くことはほとんどなくなったが、テンションのアップダウンは今でもいたるところで健在だ。定期を家に忘れた日は「なんでいつも持ってくるのに…」「これで何百円かを無駄にするだなんて…しかも往復で倍の値段に…」と、朝から晩までぐずぐずしている。LINE上でのコミュニケーションで(主に一方的に私が思うだけなのだけれど)相手を混乱させてしまった時にも「なんでこういう風に言えなかったんだろう本当にごめんなさい…」と、死に際のゾンビのように生きた心地がしない。そして「定期忘れた死にたい」「LINE下手すぎて人間向いてない」などと急に死生観まで持ち出してくるあたり、本当に自分って面倒くさいなあとしみじみ思う。

ダウンの方に限らず、アップの方も異常だ。失くしたイヤフォンが見つかった日には世界が明るくみえる。好きな人に話しかけられただけで居ても立っても居られない、なんていうベタな状況にも普通に共感できる。嬉しいことにも容易に飲み込まれてしまうという、真逆の一面も持つ。これが瞬時に起こることもあって、たとえばさんざん泣いたあとに、段々と冷静さを取り戻し、急に元気になることがある。周りも私もびっくりなのだけれど、雨上がりの晴れ渡った空のようにスーッと悲しみが引いていく。

総じて考えてみても、なんだか感情が暴力的なのだ。イヤフォンない、死ぬ。見つかった、全世界ありがとう。自分無理、死ぬ。生き返る、世界バラ色。メトロノームの針がこれでもかというほどに左右に振れているかのようだ。

やっぱり、これじゃあいけない。
まず、周りの友達にびっくりされてしまう。ありがたいことに人に恵まれているのか、しんどい時には話を聞いてくれて、助けてくれる友達がよく周りにいる。それはとても幸せなことだけれど、やっぱり迷惑ばかりをかけたくもないし、自分でコントロールできることはしたい。大事な友達だからこそ、振り回すことはしたくないのだ。
そして多分この心持ちは、自分自身にとってもあまり良くない。疲れるし、落ち込みすぎている自分や、舞い上がりすぎている自分をふと客観的に見ると、感情の無駄遣いが多すぎるのだ。坂道ののぼりくだりだけで消耗してしまっては、前に進もうにも進めない。

私は前に進みたい。もっと、自分自身が幸せになる形で、日々を生きていきたい。感情のアップダウンは、そのためには直さなければいけない部分だ。「定期忘れた、もう自分ったら、次から気をつけよう」「失くしたイヤフォン見つけたけど、もうなくさないように気をつけよう」そのくらいなだらかなアップダウンで、優しくエコに感情を使いたい。

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