薩摩・大隅・日向と仏教のであい
日本に仏教が公伝した年代は諸説ありますが、おおよそ6世紀半ばと考えられています。
そして、仏教が日本に伝わり100年ちょっとすぎた頃に現在の宮崎・鹿児島エリアに初めて僧侶が派遣されたようです。
この宮崎・鹿児島エリアに仏教が公に伝わった初出は、『日本書紀』巻第三十の「持統天皇紀」において、即位6年の年の5月(692年5月)に持統天皇が筑紫大宰(つくしのおおみことのもちのつかさ)に命じて、大隅・阿多(薩摩)へ僧侶を派遣したと記されているものです。
この時代はお隣朝鮮半島は三国時代の終盤ですね。新羅・唐の連合が百済、高句麗と闘い情勢が不安定な時です。そんな、朝鮮半島との交流の玄関口として、筑紫大宰は辺境を外敵から守る仕事を任されていました。
そんな、筑紫太宰に命じての鹿児島県への僧侶派遣。どういった僧侶たちだったんでしょうか?
この時代の日本の仏教は、天武天皇が国家に仏教を従属させた国家仏教であります。
国家仏教は現在の仏教のように、個人の救済や仏教の教義、思想の実践は重視されません。そもそも、日本に仏教が伝わった際に、仏様は外国の神様の一人として考えられ、もともとの日本の宗教観の神と同じように受け取られていたようであります。ですので、仏教の教義や思想が確立されるには時間がかかったんでしょう。
それらを考えると、この僧侶の派遣は、仏教の布教というよりも、大隅・阿多(薩摩)の隼人(部族)を管理するための政治的思惑が見えるように思いますね。
宮崎に残る神話の数々も、この大隅・阿多(薩摩)の隼人(部族)を中央政府に引き入れてコントロールするためにつくられたという説もある様です。
ただ、この時代の大隅・阿多(薩摩)の隼人(部族)は持統天皇の即位の際に、中央へ故天武天皇への誄進に来たことが、「持統天皇紀」にあるように、国家との関係性はそこまで悪いものではないようですね。
この時に大隅・阿多の何処かに寺院が建立されておれば、もう少しいろいろ残っていたでしょうが、今では謎ですね。
とにもかくにも、日本地図で見ると、本当に端っこ。辺境の地である薩摩・大隅・日向の国でありますが、意外と古い時代から仏教、そして僧侶がいた土地なんです。
九州の南で地図では端っこでも、昔から時代の最先端を行くインテリな土地だったのかもしれないですよ。
その様な歴史の先に、今こうして正國寺はあると考えると、色々と思う事が出てくるように思います。
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