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一口法話 ナモアミダブツ

平成30年に往生いたしました、当山正國寺前住職の英彰が昭和45年から始められ、毎年発行しております寺報に掲載の法話や詩、ご門徒様の寄稿をご紹介していきます。※内容は適宜、修正し掲載している場合があります。

【昭和46年掲載 前住職英彰の一口法話】

『美しく飾られし玉の車も朽つ我等が肉体も又ついに老ゆ、されどよき人の法は滅ぶことなし、人より人へと語り伝えて』

火葬場での収骨のおつとめの時、腰骨のあたりは未だ火のついている有縁の人々の姿を見るたびに、冷厳なる【死】という事実の前におののきながら、深く深く人生を思わずにはおれない。
これが親しかったあの人の相であろうか。まことに死の前には一切がむなしい。

全てが音をたてて崩れてゆく。つくづく死んではならぬと思う。

然しまた、そう思う心の裏側でこの私も死んでゆかねばならぬという思いをどうすることもできない。あきらかにそのように思いを深めてゆくときに、私はこの人の世を超えた、まことの光を仰がずにはいられない

このように深まってゆく心のはたらき。そのはたらきを起こしてくださるもの、そのはたらきゆくすがた、それを阿弥陀如来の本願、南無阿弥陀仏と申されてある。

ナモアミダブツの中に生れ、ナモアミダブツの中に迷い、ナモアミダブツの中に死んでゆく。

はかりなき生死を尽くして懸命に生きる姿そのままが、実はナモアミダブツのはたらきなのであると教え給う

『正像末和讃』
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり

『歎異抄』2条
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、
よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

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