死を縁として真実の生に目覚める
平成30年に往生いたしました、当山正國寺前住職の英彰が昭和45年から始められ、毎年発行しております寺報に掲載の法話や詩、ご門徒様の寄稿をご紹介していきます。※内容は適宜、修正し掲載している場合があります。
【昭和45年掲載~あるご門徒様の寄稿~ 『長男を亡くして』】
元来、私は浄土真宗の家に生れ、妻もまた浄土真宗の家に生れたのでお寺さんとは縁のあることは知って居たのですが、その頃はまだお寺さんは遠い山の向うの谷間にあるとしか心にありませんでした。しかし、今日、長男を亡くしてからというものは、実にお寺さんは自分自身の眼の前にありということを痛感し、実は大いに恥入っておるところです。
その後、幸いにしてご本山にもご縁に恵まれて家内ともどもお参りをしましたが、これもみな長男に「トウチャン」「カアチャン」一緒にお参りしようと、両手に引かれての参拝であったことは私達夫婦の偽りのない姿でした。
お陰様で、私たち夫婦は初めて念仏奉仕団にも参加させていただき、誠にこの上ない最高の幸せ者よと、長男と別れて初めて味わえた喜びです。
仏様の前に坐る時、必ずのように亡き長男への感謝の気持ちで一杯です。
宗祖様のお墓におともできた我が子がうらやましくもあります。
こうして結ばれた御仏へのご縁を喜び、幸せをいただき、安心して日日をおくっております。
信仰は学問や理屈だけで味わわれるものではなくて、自己の体験から生まれるものが一番尊いものだとつくづく身にしみて味わわされています。
【若院のあじわい】
本当に、頭が下がるご教示をいただきました。
阿弥陀様に出遇わせていただくのは、学問や理屈ではない。いただきもの、お陰様でしたとありのままいただかせていただく。
『浄土和讃』「大経讃」
善知識にあふことも をしふることもまたかたし
よくきくこともかたければ 信ずることもなほかたし
眼に見えていても、知っていても遠かった阿弥陀様。その様な阿弥陀様のお救いに出遇わせてくださったのが、長男さんでした。難の中の難である真実の教えに「一緒にお参りしよう」と手を引いてくださった。ご夫婦にとっての、まさに善知識だったのでしょう。
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